──太守様と呼ばれるくらいですから、次の天下を取るのは義元だろうという評判だったとも言われています。

 僕は、義元は天下を取る気はなかったと思っているんです。今川家は元々、守護大名から戦国大名になった家なので、今川家と言ったら駿河なんですよね。京都に行こうとかって発想は、もうちょっと身分の低い人じゃないと湧かないんじゃないかな。織田信長は守護大名の、守護代の家来の血筋ですからね。自分の国を持っていないから、どんどんお城も移動して、場所を移していく。そういう発想は今川家にはなかったんじゃないかなと思っています。

──そうすると、桶狭間には何があったのでしょうか。

 東海道や伊勢方面を押さえるつもりだったと思うんですよ。合戦については、その日のいろんな条件があって、どういうふうに転ぶかわからない。とはいえ敗れたのは事実で、それは不幸なことだったんですけど……。でも、あの一戦だけでダメ大名にされてしまうのは、あまりにもかわいそうですよ。そもそも、戦場で散った今川義元と、お寺で寝てたら家臣にだまし討ちにあった織田信長、どっちが武将っぽいかって話ですよ(笑)。実際に義元の最期は、敵方と斬り合ったり、敵の指を食いちぎったりというようなことを書かれたものがあるんです。なぜ軟弱な公家風に描かれてしまうのかわからないですよ。

──義元への愛を感じます。静岡の二大有名人といえば今川義元と昇太さんだという声も。

 いやいやいや(笑)。でも、今川義元役が決まったら、静岡出身の方や、地元の方たちに「今川義元をよろしくお願いします」って、ものすごくたくさん言われました。手を取って言われるんです。やっぱり、義元が散々な扱いを受けてきて、静岡の人たちはずっと悔しい思いをしてたんだなと思いました。これを機に徐々にね、今川家の復権に向けて社会の動きが進めばいいなと(笑)。(構成・秦 正理)

週刊朝日  2017年3月24日号