さてどうなるのか興味津々だが、舟は通り過ぎるだけ。興をそがれた青年はやおら再び行為に取りかかる。恥ずかしそうにもだえる娘。映像はすべて水面を通してとらえられ、その幻想的なカメラワークが「芸術的だ」と評判を呼んだ。ラストシーンには潮来の大空が映し出されたというから、やはり芸術的である。

ブルーフィルムがはやっていたころの東京・浅草。1954(昭和29)年1月3日 (c)朝日新聞社
ブルーフィルムがはやっていたころの東京・浅草。1954(昭和29)年1月3日 (c)朝日新聞社

 本邦初の国産カラー16ミリのブルーフィルムも昭和27、28年ごろに登場した。制作者は大学出のインテリ。伊豆の伊東温泉(静岡県)で撮影された。「室内編」と「屋外編」の2種類があったといい、前者は、豪勢な寝具になまめかしい長襦袢姿の女性が横になり、浮世絵の枕草子を眺めている場面がファーストシーンだったという。客席から一様に「ほーっ」「ふー」とため息が漏れたそうである。制作費の資金源は熱海の親分だったという話もある。

 警視庁管内よりは取り締まりの目をかいくぐりやすかったのか、やがて関西モノ、四国モノも出回る。コピーもどんどん作られた。ドタバタ喜劇のようなコミカルな作品もあり、最初のうちは息をのんでいた観客たちが、最後はゲラゲラ笑い出してしまうようなものもあった。

 浅草には全国から好事家が集まり、夜ごと大変なにぎやかさだったそうである。ブルーフィルムの市場としても日本一(世界一?)。全国から新作、迷作が集まってきたというから、どこで何を上映するのか調整するだけでも大変だったろう。浅草や上野には、会場を貸す業者やフィルムを回す技師らを含め、200~300人がいたそうである。400字詰め原稿用紙で100枚くらいだったという脚本書きも、1冊1万円をもらえたそうである。当時の大卒の月給並みの金額である。

 上映される街には、温泉マークを看板にしたいわゆる「連れ込み宿」が氾濫。クラゲを逆さにしたような形だったため、「サカサクラゲ」と呼ばれた。そこを使った売春兼業のマッサージ業者も出現した。「アンマ」と「パンパン」を合成した「パンマ」という言葉も登場した。湯の町、熱海にはブルーフィルムの上映会とともにパンマが大量に進出し、正統なマッサージ業者からクレームが出たそうである。

 なんともおおらかな時代である。

週刊朝日 2016年12月9日号