「歌った子門真人さんはそんなに売れると思わなくて、印税にするか買い取り(5万円)にするかと事務所から聞かれ、買い取りにしたそう。報奨金として100万円だけ追加で出たと本人から聞きましたよ。彼とはよくカラオケに行ったんですが、何歌っても、ねばっこーい歌い方でたいやきくん風になっちゃう(笑)」(前出の橋本さん)

 太田裕美の「木綿のハンカチーフ」もこの年にヒットした名曲だ。太田のバックバンドでギターを弾いたのは、ビーイング代表、日本コロムビア社長などを歴任した中島正雄さん。当時を振り返る。

ドラマのある歌詞にギター中心のポップなアレンジですが、テレビ局のフルバンドが初見で演奏するにはアレンジが難しすぎるため僕が各テレビ局を回って弾きました。太田さんは自らピアノを弾く音楽的な方で、『中島くんこうやって。できないの?』なんて(笑)、指示もミュージシャン同士の会話でした」

 76年のレコード大賞は「北の宿から」の都はるみ。当時、付き人をしていた前出の西潟副社長は、はるみの“男気”にいつも驚かされたという。

「衣装を決めるときはパッと1秒。楽屋で鏡の持ち方が悪いと『角度!』と激。一度私が現場で失敗して叱られて翌日落ち込んで行ったら『なんかあったっけ?』と“男気”がある。バックバンドもよく叱られていました。『バンマスなにさっきの音! ずれたじゃないよー』。その迫力たるやすごい。でもプロ意識の高さに皆の士気も高まったものです」

 70年代後半には、ピンク・レディーが登場する。作曲家の都倉俊一が名付け親となったアイドルは振り付けとともに日本中を席巻、デビュ4曲目の「渚のシンドバッド」が77年の1位となり、78年は3曲が上位を独占。「UFO」がレコード大賞を受賞した。サザンオールスターズは同年、ピンク・レディーとジュリーの曲をもじり「勝手にシンドバッド」でデビュー。

 78年の5位、「微笑がえし」はキャンディーズのラストシングルにして最大のヒット曲。作詞をした阿木燿子は夫・宇崎竜童(ダウン・タウン・ブギウギ・バンド)とのコンビで山口百恵に楽曲提供し「横須賀ストーリー」等のヒットも生んだ。

 73年にデビューした山口百恵は同い年の桜田淳子、森昌子と花の中3トリオとして活躍。三浦友和との結婚を機に引退した80年に出版した自叙伝『蒼い時』は344万部を売り上げた。

 79年のレコード大賞受賞曲、「魅せられて」の作詞も阿木が手がけた。ジュディ・オングが歌ったこの曲は老若男女を魅して200万枚のヒットとなる。

「純白のドレスを孔雀の羽のように広げる衣装が強烈な印象で、全国の小学生がカーテンを外して体に巻きつけ、『好きな男の腕の中でも違う男の夢を見る~』と口ずさみ、世の男性陣は女ってそういうことを考えるのか、と歌詞を聴いて心配したものです。衣装はその後、小林幸子さんなどにも影響を与えたといわれています」(橋本さん)

(編集部・藤村かおり、太田サトル)

週刊朝日 2016年9月30日号より抜粋