79年「魅せられて」がヒット中のジュディ・オング (c)朝日新聞社
79年「魅せられて」がヒット中のジュディ・オング (c)朝日新聞社

 昭和にはいつも“歌”があった。1970年代のシングル年間チャートとレコード大賞を参考に、昭和歌謡黄金期と呼ばれた時代を振り返る。

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 オリコンで72、73年と2年続けて首位獲得の宮史郎とぴんからトリオの「女のみち」は、少し異質。

「ぴんからトリオはコミックバンド。ボーカルの宮さんはアクの強いだみ声で、惚れた男に尽くして捨てられる女心を歌った。自主制作のレコード300枚をキャバレーで配ったら水商売の女性が共感して、有線放送から爆発的なヒットになった」と、『昭和ヒット曲全147曲の真実』(KADOKAWA)などの著書がある橋本テツヤさんは話す。

 この曲のヒットにはドリフの「8時だヨ!全員集合」も影響した。コントでお巡りさんに扮した加藤茶が自転車を漕ぎながら「わたしが、捧げた~その人に~」と歌いながら登場し、子供たちが日本中でマネをした。73年には“演劇歌謡”といわれたちあきなおみの「喝采」や、ザ・タイガースジュリーこと沢田研二の「危険なふたり」もヒット。

 70年代前半には、時代を象徴する歌手も登場する。それが藤圭子、そして吉田拓郎だ。

 音楽評論家の田家秀樹さんが言う。

「藤圭子の70年のシングル『圭子の夢は夜ひらく』は3位だが、年間のアルバムチャートは藤圭子一色。生い立ちを周囲がプロデュースして歌う彼女のアンチテーゼとして登場したのが吉田拓郎でした」

 72年の「結婚しようよ」は14位ながら社会現象になり、テレビに出ない姿勢も話題になった。

「『結婚~』は男のプロポーズソングで、僕の髪が肩まで伸びたら結婚しようと歌う。そんな歌は世界中探してもない。アメリカでは長髪は反文明を意味したが、日本では男の子の長髪は可愛いという受け取られ方をした」(田家さん)

 拓郎の登場後、ファッションとして長髪やギターが世に広まり、フォークやロックがニューミュージックとしてメジャーになった。74年のレコード大賞にもそんな風潮が反映された。森進一の「襟裳岬」は岡本おさみが作詞、吉田拓郎が作曲で“演歌とフォークの壁が崩れた”といわれたのだ。75年の大賞曲、布施明の「シクラメンのかほり」は小椋佳が作詞・作曲。76年の「北の宿から」の作曲は学生時代にジャズバンドをしていた小林亜星が担当した。

「テレビに出ない畑の人々が伝統的な演歌ではない歌謡曲を書くようになった」(同)

 76年には史上最高売上枚数453.6万枚というお化けソングも登場。子ども番組「ひらけ!ポンキッキ」から生まれた「およげ!たいやきくん」だ。

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