85年にはひとつのバラエティー番組がスタートする。

「夕やけニャンニャン」。秋元康プロデュースで番組アシスタントとして結成された、おニャン子クラブは、素人感ただようグループアイドル。同じく秋元が手がけ、2000年代後半から現在に至るまでのグループアイドルブームを牽引するAKB48の先駆けのような存在だった。
 
 80年代において、ジャニーズ勢の活躍はめざましかった。80年の近藤真彦のデビュー曲「スニーカーぶる~す」は、100万枚を超える売り上げ。シブがき隊、少年隊など人気グループが次々誕生し、87年には光GENJIがデビュー。デビュー曲「STAR LIGHT」の作曲はチャゲ&飛鳥、作詞は飛鳥涼だ。90年代にデビューしたKinKi Kids山下達郎が曲を提供している。

「踊りやそれまでにない洋楽の要素を取り入れてきたところが革命的。形は欧米だが日本的なタイトルのミュージカルをしたり、アメリカに対抗する意識を(ジャニー喜多川さんは)60年代から持ち続けているようにみえます」(前出の田家さん)

 89年、昭和の最後の年の年間売り上げ1位、2位を独占したのは、ガールズバンドの頂点とされるプリンセス・プリンセスだ。同時期に起きたバンドブームに乗り、作詞・作曲の技も磨いてブームを牽引した。

 同年のレコード大賞では“事件”が起きた。大賞がWinkの「淋しい熱帯魚」で、次点が美空ひばりの「川の流れのように」。ひばりがWinkに負けてしまった……。翌年から92年まで「演歌・歌謡曲部門」「ポップス・ロック部門」に分かれるきっかけだといわれる。

 ビーイング代表、日本コロムビア社長などを歴任した中島正雄さんは言う。

「これ以降、ヒット曲は数週間の勝負になった。売り方を変えず、時代と関係なく一定の売り上げを保っているのは実は演歌。作曲家の鈴木淳さんが言ってました。『昔のヒット曲には必ず発明があった』と。どの曲も、イントロ、Aメロ、Bメロ、サビ、鮮明に思い出せる。それは、それぞれの曲に、発明があったから。今の歌謡界は成熟しすぎてしまったんでしょう」

(編集部・藤村かおり、太田サトル)

週刊朝日 2016年9月30日号