追悼・永六輔さん 30年間の取材で見せた優しさと厳しさ (1/2) 〈週刊朝日〉|AERA dot. (アエラドット)

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追悼・永六輔さん 30年間の取材で見せた優しさと厳しさ

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7月7日、東京都内の自宅で亡くなった永さん=2011年9月(撮影/写真部・馬場岳人)

7月7日、東京都内の自宅で亡くなった永さん=2011年9月(撮影/写真部・馬場岳人)

 タレントの永六輔(本名=永孝雄)さんが肺炎で亡くなった。83歳だった。200万部超の大ベストセラー『大往生』そのままの穏やかな最期だったという。30年間にわたって取材した記者・山本朋史が永さんの思い出を振り返る。

*  *  *
 最初は1986年7月だった。永さんは野坂昭如さん、小室等さんと一緒に「国鉄 分割・民営に異議あり!」という意見広告で主張を展開。準レギュラーを務めていた人気番組「遠くへ行きたい」を降板したときのことだ。メインスポンサーは国鉄(現在のJR)。間に入った番組制作会社の困惑に配慮しての決断だった。

「もっと怒りましょうよ」

 と言う記者に永さんは、

「あなたは知らないだろうけれど、ぼくは若いときはけんか早くて、自分から番組を辞めたケースは何回もある」

「ぼくは国鉄の赤字路線を守ろうと意見を言っていたのに、その前にぼくの路線がなくなった」

「こんなかたちで降ろされたのは初めてだけど。寂しいね」

 このときの記事のメインタイトルは永さんからいただいた「永六輔の気分はもう『遠くへ行きたい』」。

 90年には、永さんと付き合いの深かった漫才の内海桂子さんが68歳で24歳年下男性と一部の反対を押し切って同棲生活を始めたと耳打ちされた。「気配りのある取材」を勧められた。初の芸能取材で直撃したルンルン気分の桂子さんの新居生活の様子を永さんに伝えたところ、「常に取材された相手のことを考えながら記事にすること」と念を押された。

 以後、長く週刊朝日で連載コラムを書いていただいた。月に2、3回会うことも多かった。いつも有楽町やTBSの喫茶店で待ち合わせた。約束時間の15分前に行くと、いつも永さんは先に来ていた。30分前に行っても席にいた。負けじと40分前に行くと、「ゆっくり原稿を書いていたのに、あなたも相当なせっかちだね」。

 17年前だったか、銀座の画廊で知人の作品展があった際、永さんと妻の昌子さんと会ったことがある。このときは「孝雄クン」「昌子さん」と呼び合っていた。昌子さんは、「旅で外食が多いから毎日、野菜サラダを食べるようにと言っているんですよ」。

 永さんは娘さんや孫からも「孝雄クン」と呼ばれていると後に聞いた。

 永さんは若い芸人の舞台もよく見ていた。ほとんど無名と思われる芸人の舞台客席で永さんの姿を見つけたときは驚いた。


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