33歳の若さで亡くなった山口良忠判事 (c)朝日新聞社 @@写禁
33歳の若さで亡くなった山口良忠判事 (c)朝日新聞社 @@写禁

 今から68年前の10月11日、妻・矩子と幼い子供を残して一人の若き判事が死んだ。東京地裁判事で食糧管理法違反など経済犯を担当していた山口良忠(享年33)だ。闇米を拒否した末の餓死で、それに米国のマスコミは「プリンシプルの男」と最大限の敬意を表した。あの矛盾と欺瞞に満ちた戦後の混乱の時代を彼はいかに生きたのか。ジャーナリスト・徳本栄一郎が取材した。

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 白石町は佐賀県の有明海沿岸にあり、秋には見渡す限り稲穂の波が揺れる。

 1947年10月12日、その田んぼの間の道を葬列が進んでいた。位牌を抱いて憔悴した女性と幼い2人の男の子、その後ろに親族や近所の住人が続く。降っていた雨も上がり晴れ間ものぞき始めた。彼らは白布で覆った棺をリヤカーに積み、川沿いの火葬場へ向かっていた。

 その翌月の11月6日、米国を代表する大手紙ワシントン・ポストとニューヨーク・タイムズにある記事が載った。山口良忠という東京地方裁判所の判事が飢えと病気で死亡したとの内容で、“a man of high principles”(プリンシプルの男)と紹介していた。プリンシプルとは原理原則という意味で、命を賭けて信念を貫く高潔さを指す。

 戦争終結からわずか2年、まだ反日感情が根強い米国で一人の日本人に最高の敬意を表したのである。

 きっかけはその2日前、朝日新聞西部本社版に載った記事だった。

「食糧統制に死の抗議」「われ判事の職にあり」という見出しと、その横に男性の写真がある。白石町出身で東京地裁判事の山口良忠(享年33)は食糧管理法違反など経済犯を担当していた。だが人を裁く身で闇米は食べられないとし、配給食糧だけで生活した。そして栄養失調による肺浸潤で倒れ、故郷で療養中に亡くなったとの趣旨だった。

 記事は本人が病床で書いたとされる日記を引用していた。

「自分は平常ソクラテスが悪法だとは知りつゝもその法律のために潔く刑に服した精神に敬服している。今日法治国の国民には特にこの精神が必要だ」「自分等の心に一まつの曇がありどうして思い切つた正しい裁判が出来ようか」

 これが全国に知られると、各地の新聞に投書が相次ぎ大きな反響が沸き起こった。一判事の死がなぜ、社会問題に発展したのか。その背後にはわが国を襲った深刻な食糧危機があった。

 1945年8月の敗戦で日本は連合国軍総司令部(GHQ)の占領下に置かれた。GHQは新憲法制定や教育改革など民主化を推し進めたが、当の日本人はそれどころではなかった。敗戦の年は冷夏と水害も重なり米が記録的な凶作となった。旧植民地からの食糧輸入も途絶え、数百万の人々が海外から引き揚げてきた。そのため翌年には全国で未曽有の食糧不足が発生する。戦時中から政府は食糧管理法で米などの配給を導入したが、敗戦直後は遅配や欠配が相次いだ。

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