Aは、見城社長を心から慕い、見城社長も社内に編集チームをつくり、出版の準備にとりかかった。だが、順調に見えた両者の関係は、15年1月にきしみ始めた。週刊新潮の記事で、幻冬舎がAの手記の刊行を計画していることが明らかになったからだ。記事には遺族の批判の声も掲載されていたからか、これを機にAは、一度は出版を断念した。一方、幻冬舎側にとっても、手記を出版したあとに世間から受ける批判を警戒していた。にもかかわらず、Aによると、編集チームが太田出版から手記を出すよう、電話やメールで説得してきたという。

<弊社で出せなくなってしまった場合、見城は(チームの面々も同意見ですが)、それでもこの手記はやはり世に出すべきなのではないか>(1月26日のメール)

 Aは、一度は諦めた手記の出版を、再び決意する。そして見城社長は、版元として、親交のある太田出版社長の岡聡氏を紹介。その後、6月に手記が出た。

 当然のことながら、『絶歌』は厳しい批判にさらされた。しかも、同月中旬には、見城社長が週刊文春の独占インタビューに応じ、出版を断念した経緯を明らかにした。これをAは裏切りと感じ、怒りは頂点に達した。

<かつては『心の父』と慕い、尊敬していた人物のみっともない醜態を見せつけられることほど辛いものはありません>

 かつてAの更生に携わった関東医療少年院元院長である杉本研士氏は、悔しさをにじませる。

「出所して10年間も地道に努力してきたのに、無にしてしまった。彼は一度、出版を諦めようとしていたのに、惜しいことをした」

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