百田尚樹氏の『殉愛』(幻冬舎)は、闘病生活の約700日間、一日たりともたかじん氏から離れずに看護をしたさくら氏を大絶賛。一方で親族は、<ちなみに娘を含めて彼の親族は、彼が亡くなるまで一度も見舞いに来なかった>と冷淡な人々と描かれ、本のテーマである「愛を知らなかった男が、本当の愛を知る物語」が強調されている。だが、Hさんから見れば、見舞いに行きたくても行けないという状況があった。

「連絡が取れなくなっていたので、父がどこに入院しているのかも、がんの進行の程度もわからなかった。ずっと大阪の病院だと思っていて、最期が東京の聖路加国際病院だったのも知りませんでした。おじたちがマネジャーさんに聞いても、『今は誰とも会いたがりません』と、見舞いは断られた。無理に会いに行くよりは、落ち着いたら連絡をもらえるんじゃないか、ということになっていたんです」 

不幸なボタンの掛け違いは、この後も続く。

 12年9月、Hさんは結婚することを直接、報告しようと父に頻繁に連絡したが、ナシのつぶて。結婚相手がたかじん氏へ宛て「お嬢さんと結婚したいので、お会いしたい」という内容の手紙を書き、マネジャーに託したが、これにもたかじん氏から返事はなかった。

『殉愛』では、その手紙を見たたかじん氏の反応として、こんな記述がある。

<たかじんは不快感を隠さなかった。/「親が生きるか死ぬかの病気で苦しんでるのに、一度も見舞いに来んと、自分は結婚するから祝ってくれって、どこまでおのれのことばっかりなんや。これまでも仰山(ぎょうさん)お金渡してきた。これからは旦那に養ってもらえ。もう親をあてにするな」/たかじんはその手紙をくしゃくしゃに丸めた>

 結婚報告を父に無視されたことは、Hさんにとって大きなショックだった。

「私は結婚祝いがほしいなんて言っていません。父に結婚相手に一目、会ってほしかっただけなのに、返事もくれなかった。母が父の女性関係でさんざん、苦労したことを聞いていたこともあって、この局面でも若い女性をそばに置き、私の結婚を無視する。『父親ってこんなものなのか』と、いい加減腹が立ちました。同年12月に結婚して以降、父にはほとんど連絡をしなくなりました」

『殉愛』にある通り、たかじん氏は実の娘を心底嫌っていたのだろうか。たかじん氏をよく知るテレビ関係者はこう証言する。

 
「娘さんのことをここまでボロクソに言っていたか、と言うと違う気がする。新地で飲んでいる時でも娘さんから電話があれば丁寧にしゃべっていたし、『親らしいことを何もしてへん』という気持ちも吐露していた。結婚相手についてもかなり心配していました」

 結局、Hさんは父を看取ることができなかった。14年1月3日にたかじん氏が亡くなると、Hさんはさくら氏から連絡を受け、東京のたかじん氏のマンションでやせ細った父の遺体とようやく対面する。この時が、さくら氏との初対面だった。

 Hさんの弁護団が作成した訴状では『さくら氏が無償の愛を注ぎ、相続においても何も求めず謙虚な姿勢を示してきたという作品の基調はそもそも事実に反する』と記してある。

 たかじん氏は亡くなる直前、遺言執行者となる弁護士を呼び、死亡危急時遺言を作成していた。

「遺産のうち6億円は大阪市や社団法人などに遺贈を行い、それ以外のすべての遺産はさくら氏に相続させるというものでした。死亡時、たかじん氏の自宅金庫には2億8千万円の現金があったとされ、さくら氏はこのうち1億8千万円は生前、取り交わした『業務委託契約』に基づいて自分のものだと主張しています。そして遺言執行者が勝手にさくら氏分のお金を数えたなどという理由で解任を家裁に求め、その弁護士は辞任し、百田氏が描いた内容と違っています」(Hさんの代理人を務める的場徹弁護人)

 Hさん側の主張を、どう受け止めるのか。また、Hさんに取材せずに作品を世に出したことに問題はなかったのか。幻冬舎と百田氏に見解を尋ねたが、<現在係争中であり一切の回答を差し控えさせていただきます>とのことだった。

(本誌取材班)

週刊朝日  2014年12月19日号より抜粋