一風変わった誕生日プレゼントや結婚祝いに「体験型ギフト」を選ぶ人が増えつつある。そんな「体験型ギフト」の特別版「プロの落語家に弟子入り」に、3日間、アラフォー記者が挑戦した。初日は東京・浅草の小さな寄席で、江戸古典落語で定評がある古今亭志ん輔師匠に「やん八」という名を授かり、人間に生まれ変わりたがっていた白い犬が夢をかなえたものの、つい犬の習性が出てしまう「元犬」という演目を挑戦することに決めた。

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 不安いっぱいで迎えた2日目。「覚えようとしなくてもいいから、おなかから声を出して2回読んで」と師匠に言われるがまま、紙を見ながら大声を出す。

「じゃあ一人ずつ高座でやってください。恥をかきつつ、やりながら覚えていくのが一番ですから」

 無理!という心の叫びも空しく、記者の番が回ってきた。高座の座布団に腰を下ろすと、スポットライトが眩しくてクラクラする。他の弟子たちの視線を浴びながら、断片的な記憶を頼りに言葉を絞り出す。だが、なかなか台詞が出てこない。目が泳ぐ。「あ~、え~」を連呼して言葉をつなごうとすると、

「あ~、え~、はなし。目をキョロキョロしない!」

 師匠の声が轟く。早く終わらせようと焦ってしゃべるほど言葉に詰まり、またも師匠の声が飛んでくる。

「早く終わらせようと思ってもだめ。恥ずかしくても、焦っても、一つずつ丁寧に。着実に重ねて先に進むしかないんだから!」

 落語指導のはずが、落ち着きのない性分を見抜かれているかのような指摘だ。さらには笑わせる部分で緊張が高まり、必ず同じところで台詞がつっかえる。師匠が言う。

「『その下駄貸してあげるから』の後、ひと呼吸入れずにぐっと詰めて客を引きつけておいて、左から右に走るシロを目と指先で追いながら、一気に『下駄くわえて駆け出すんじゃないよって~っ!』って言う!」

 どこで力を込めて間を詰め、どこで流れるように語るのか。客から笑いを引き出すために、緻密に組み立てられた話芸の神髄を垣間見る思いがした。名人の軽妙な技の裏に、こんな計算が潜んでいたのか。

 高座に上がって師匠に稽古を付けてもらうこと3回、だんだん自分なりの感覚をつかめてきた。客席から笑いが起きると、かすかな喜びさえ感じる。つい数時間前まで怖じ気づいていたのが、うそのようだ。帰り道でも帰宅後も、猛練習した。一字一句正確には言えなくても、自分の小さな成長を実感できる。かすかな光が見え始めた。

 そして、いよいよ最終日。「まずは形から」と着物姿で浅草へ向かった。「完璧を目指さなくてもいい。その場しのぎではなく、今やれることを100%出し切ってほしい」

 師匠の激励に気が引き締まる。自主練習では細かく書き込みを加えたノートを手に声を出す人、扇子のしぐさを練習する人、各自が自分と向き合っていた。そのとき、記者に落とし穴が待っていた。今回は取材を兼ねていたため、師匠にインタビューをした途端、頭の中は白紙に戻り、高揚感がうそのように消えたのだ。たった40分、仕事モードに切り替えただけなのに。発表会タイムになっても気持ちは焦るだけ。高座に上がっても早く終わらせたい一心で、それが更なるグダグダを呼ぶ悪循環。昨晩の手ごたえは幻? 客席で見守る仲間たちの視線がつらく、一度萎えた気持ちは取り戻せなかった。

 こうして高座デビューは無残な結果となり、楽しさより苦さだけが残った。「ヤケのやんパチ」気質を、師匠に初日時点で見抜かれていたことを思い知らされた。落語とは江戸の庶民の軽妙な掛け合いや義理人情を巧みに演じ分け、聞き手を引き込む芸だ。話術に長けたプロに、人間観察はお手の物なのだろう。

 終了後、他の弟子たちは「高座でしゃべっているときはすごく気持ち良く、ウケるともっと気分が良かった」(30代男性)などと口々に快感を語った。

週刊朝日 2013年11月22日号