「身代金をとれない人質をこれ以上拘束し続ける余裕はない。それなのに私は殺されなかった。そのとき初めて生きて帰れるかもしれないと思いました。同時に『これがお前たちのジハード(聖戦)なのか』と、怒りがわき上がりました」

 常岡氏の読みを裏付けるように、その後の監視態勢は徐々に緩んだ。見張りやその上官から、幾度となく解放が間もないことをにおわされるようにもなった。

 7月上旬、解放まで主に過ごすことになる民家に移された。食事は格段に充実し、食卓にはメロンやスイカが並んだ。マンスールと違い、そこの見張り兵士は礼拝すらろくにしない信仰心の薄い連中だった。

 断食月「ラマダン」が8月11日に始まった。日本のテレビで流れた拘束中の常岡氏の映像は、その日に撮影されたものだった。
「ラマダン前に解放されると信じていたのが裏切られ、ビデオを撮るということはまた脅迫でも始めるのかと思い、半ば呆然とした気持ちで兵士の質問に答えたのを覚えています」

 解放は突然だった。9月3日、監視の兵士が、
「あすバザールでお前の靴と服を買ってやる。そしてその翌日、解放だ」

 と告げた。半信半疑の常岡氏に翌日現れた上官は、
「解放は今日になった。頭を洗いなさい」

 昼の礼拝を終えると、外に車が待っていた。途中3回車を乗り換え、そのたびに同乗者の顔ぶれが違った。カブールに近づき、舗装された道路を走るようになり、やがて大統領府が見えた。やっと気持ちが緩んだ。
「本当だったんだ」

 157日間の監禁生活でひげはヤギのように伸び、体重は10キロ近く落ちていた。

 事件について常岡氏はこう分析する。
「イスラム党の犯人グループはタリバーンを騙って悪事を働き、アフガン政府は正体を知りながら、タリバーンの仕業だと発表しました。政府は軍閥の暴走を許し、それを隠蔽するカルザイ政権の指導力の欠如と腐敗を物語るものです。救いは日本政府が身代金要求に応じなかったことです。成功体験を与えたら、他の軍閥もこれに倣い、アフガンは誘拐ビジネスの国になってしまう。復興の芽が摘まれてしまうところでした」

 外務省の退避勧告に逆らって危険地域を訪れ、拘束されたことについては、
「批判を受けるのは当然だと思います。政府側の軍閥が危険であることを知らずに訪れた僕の力不足でした。しかし、危険だから行くなと言われて、メディアが『そうですね』と従うのは責任放棄です。紛争地域は最前線の情報こそいちばん重要なのだから、メディアはそれを黙殺してはいけないと思います」

 来年7月には米軍が撤退を始め、2014年末をめどにアフガン国軍に治安維持権限を移譲することが決まっている。日本政府も社会基盤整備などの費用として、5年間で50億ドル(約4500億円)もの支援を表明している。
「日本政府は事件の真相究明を求めるべきです。現地の実情を知らずに腐敗した政府にカネだけ渡すことは非常に由々しき事態です」

 常岡氏は自らの体験を元にそう訴える。 
 
 本誌・國府田英之、中村 裕

つねおか・こうすけ 1969年生まれ。早稲田大卒業後、NBC長崎放送記者を経てフリーに。著書に『ロシア語られない戦争 チェチェンゲリラ従軍記』(アスキー新書)がある。同書で、平和運動や人権にかかわる秀作を発表したジャーナリストに贈られる「平和・協同ジャーナリスト基金賞」の奨励賞に選ばれた


週刊朝日