「『タリバーンに捕まった』と言え。イスラム党だとは絶対に言うな」

 電話を取ると、日本大使館とつながっていた。なぜタリバーンの名前を出したのか、そのときは理解できなかったが、初めて自分が人質であることに気づき、殺されるかもしれないと足が震えた。

 30分足らずの通話は電波状態が悪く、2度切れた。常岡氏は「政府側の戦いをしている勢力」と表現し、誘拐団がイスラム党であることを暗に伝えた。

 監禁場所は転々とし、延べ30カ所近くに及んだ。いちばん長く閉じこめられたのは、イマム・サヒーブから5キロほどの所にある集落の民家の離れだった。

 6畳ほどの監禁部屋は暑く、衛生状態は劣悪だった。着替えは3週間に1度、洗髪は10日に1度許されただけだった。
「飲料用の井戸水は泥水でした。あるとき透明度が高いなと思って日にかざすとミジンコのような微生物だらけ。私は沸かしたお茶を飲ませてもらえたので助かりました。現地の人間は腹を下すこともあるようですが、平気で飲んでました」

 食事は三食与えられた。パンとスープ状の煮込み料理が定番。兵士が宴会の土産だと言って出してくれたラム肉の煮込みがうまかった。空腹に苦しむことはなかった。
「高さ約4メートルの壁に囲まれた敷地に果樹園があり、その隅っこに小さな穴を掘ったトイレをつくりました。水をもらって左手で直接お尻を洗うのですが、見張りのマンスールが見ている前で用を足すのが苦痛でした。現地の兵士は水を使わず乾いた土でこそげ落とすらしいですね。さすがにそれはまねできませんでした」

 仮設トイレは、母屋で飼っていた鶏の餌場になった。便にたかる虫を食べるらしい。ある日、その鶏がスープの具になっていた。
「まずかったです(笑い)。餌がなんだか知っているからか、マンスールは『俺はいらない』と食べませんでした」

 下っ端の兵士はいつも和やかだった。常岡氏の名前「コースケ」は、パシュトゥー語で「女性器」を指すらしく、それをネタにからかわれたこともあった。

 5月中旬、誘拐団の本当の目的を、母屋に住む農民に耳打ちされた。
「あいつらカネを欲しがっているんだぜ」

 後に要求額は100万ドルと聞いた。

 神学校を卒業し、きまじめな性格のマンスールは、自らの行いに罪の意識があったようだ。
「俺たちは日本人の敵になってしまったのか」

 と尋ねるマンスールに、
「当たり前だ。戦争が終わったら敵は敵じゃなくなるけど、泥棒は最後まで泥棒だろ」

 常岡氏がそう言い返すと、彼はひどく落ち込んだ。

 殺されると意識したのは5月29日のことだった。

 常岡氏が監禁されている部屋に、別の件でスパイ容疑をかけられた農民が運び込まれた。目隠しをされ、手足の流血がひどかった。

 その2日後の夜、常岡氏は部屋を追い出され、入れ替わりに、手に手術用のゴム手袋をして、刃物を持った兵士たちが入った。

 約2時間後、部屋に戻されると農民は消えていた。羊をさばくように、刃物で首を切断し処刑されたのだと、常岡氏は想像した。
「兵士たちは直前までふざけっこをして笑っていたんです。その同じ人間がためらうことなく人を殺せるなんて、メンタリティーが僕らと根本的に違うと思いました。上から指示されれば、俺も羊みたいに殺される、なんでこんなことになったのかと、後悔ばかりが頭をよぎりました」

 耐え難い退屈に深い絶望を何度も何度も味わった。
「窓から見える果樹園で、ハトが巣作りして雛を育てていたんです。気が狂いそうになると、そんな風景に癒やしを求めていました」

 6月14日、再び日本大使館に電話するよう命令された。72時間以内に要求に応じなければ処刑するという内容で最後通告だという。

 ところが、電話の相手はなぜか、毎日新聞の特派員だった。誘拐団の正体を特派員に伝えた後、「話す相手が違う」と兵士に教えると、兵士は特派員に代わって電話に出たアフガニスタン人の助手に脅迫内容を大使館に伝言するようお願いしていた。

 72時間後、何も起きなかった。

次のページ