『Horses』Pastti Smith
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『Horses』Pastti Smith
『The Complete Piano Etudes』Philip Glass
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『The Complete Piano Etudes』Philip Glass
『Mapplethorpe』Robert Mapplethorpe(写真集)
『Mapplethorpe』Robert Mapplethorpe(写真集)

 これは、5人のアーティストの名前なのだが、この5人の名前を聞いただけで、なにが起こるのか気になってしかたがないという人と、なんのことだか全然わからないという人と、2つのパターンに分かれるのではないだろうか。

 これは、「パンクの女王パティ・スミス、現代音楽の巨匠フィリップ・グラスの豪華競演作」という来日公演に関わる人たちの名前なのである。

 この公演は、「世界で最も広く読まれる詩人のひとりアレン・ギンズバーグ」の詩を、フィリップ・グラスがピアノを弾き、パティ・スミスが朗読する、という企画だ。しかも、その詩をパティ・スミスのお気に入りの作家、村上春樹と柴田元幸が翻訳するというものだ。

 そして、メイプルソープは、パティが20代前半、貧しく、ホームレス同様の生活をしていた頃に知り合い、ともに生きた写真家だ。1975年、パティ29歳のデビュー作『ホーセズ』のジャケット写真を撮影したのも、メイプルソープだ。

 まずは、フィリップ・グラス。
 グラスは、1937年、アメリカ生まれの作曲家だ。
 日本では、映画音楽の作曲家として知られているのではないだろうか。『コヤニスカッツィ』(82)、ニコール・キッドマンがアカデミー主演女優賞を受賞した『めぐりあう時間たち』が、代表作として知られている。

 わたしがフィリップ・グラスをはじめて知ったのは、76年に発表されたオペラ『浜辺のアインシュタイン』だった。このレコードは当時、池袋のアール・ヴィヴァンという美術書と前衛音楽のレコードを扱っている店で見つけた。この店については、以前にも書いたことがあるので参考にしてほしい。(第69回 まだ、聴いたことのない音楽「吉祥寺 Sound Cafe dzumi」)

 わたしは、このタイトルに惹かれて興味を持ったのだった。でも、この頃、この作品に関する情報は本当に少なかった。その後、舞台の映像やインタビューで構成されたドキュメンタリー映画も作られ、87年、ユーロ-・スペースで上映された時に観に行ったものだ。

 その後、グラスは映画音楽以外の分野でも、世間にも知られる存在になっていった。

 詩人のアレン・ギンズバーグには、一度、会ったことがある。
 わたしは、1982~3年頃、C+Fコミュニケーションという編集プロダクションに出入りしていた。新高円寺駅の近くの一軒家が事務所になっていて、そこのお風呂場を暗室に改装し、そこに、わたしの中学時代から使っていた引き伸ばし機を置いていた。もちろん、必要なときには、自由に使ってよいことになっていた。

 主催の吉福伸逸さんはじめ、デザイナーの青ちゃんや、カメラマンで通訳のみっちゃんなどに、いろいろなことを教わった。当時、愛称で呼んでいたので、フルネームが出てこないところがおかしい。
 吉福さんは、フリッチョフ・カプラ『タオ自然学』などの翻訳もしていて、わたしが精神世界のことなどにも興味を持つきっかけとなった。
 わたしは新しい雑誌の創刊にも関わり、インタビュー記事の写真を撮影したり、インタビューも行った。記憶に残っているのは、わたしが撮影した藤真利子さんの写真が、雑誌の広告の中吊りに使われたこと、そして、横山やすしさんの1日、密着インタビューを実施したことだ。

 その時の関係者が、1988年、アレン・ギンズバーグの詩の朗読会を開いた。詩の訳詩集が配られ、白石かずこさんと谷川俊太郎さんも参加した公演だった。
 わたしは、ギンズバーグのサイン入りポスターを買った。今でも実家にあるはずだ。そのあと、ギンズバーグと飲みに行くので来ないかと誘われたが、用事があって行けなかった。一生に一度の機会であったのに。

 村上春樹さんは、小説家であるのと同時に、翻訳活動もたくさん行っている。翻訳は趣味だ、と言ったようなことを読んだ記憶があるのだが、どの本で書いていたのか覚えていない。
 村上さんの『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』の英語版が刊行された際には、パティ・スミスが、ニューヨーク・タイムズに書評を寄稿し、大きな話題を呼んだ。 また、パティはギターケースに、村上春樹の小説を入れて持ち歩くほどのファンとしても知られるという。
 
 ところで、わたしは村上さんとは2度会っている。一度は、80年の10月、わたしは「ロータリー・タイムズ」という地域情報紙の編集長をしていた。新聞への折り込みを前提に、表参道から南新宿あたりまでに、1万部以上配布されていた。

 そのなかで、地元のお店を紹介しようというコーナーを作っていた。そこで、当時、村上さんが営んでいたお店を紹介したのだ。村上さんが、『風の歌を聴け』で群像新人文学賞を受賞したのは79年だから、わたしがお会いしたときには、受賞後だったわけだ。もちろん、この時のわたしは、店主が村上春樹とは知らなかった。

 お店の名前は「ピーター・キャット」。千駄ヶ谷駅から鳩森神社に向かう左側にその店はあった。お店の中は、の置物、招き猫、猫の水差し、おもちゃなどが置かれ、壁には、猫の絵やイラスト、版画が、これもたくさん飾られていた。そして、壁一面にジャズのレコードが立てかけられていた。

 それから数年後、三鷹に住んでいたわたしは、友達と駅前の玉川上水脇の日本茶専門の喫茶店でお茶を飲んでいた。すると、その友達が、「村上春樹よ」とわたしに教えてくれた。その人を見て、どこかで見たことがあるな、と感じた。そしてしばらくして、以前取材をした「ピーター・キャット」のご主人だったと気づいたのだった。
 
 思い出話が続いてしまったが、パティ・スミスとロバート・メイプルソープについて。
 わたしがパティ・スミスを知ったのは、78年に発表された3枚目の『イースター』からだ。追いかけるように、前の2枚『ホーセズ』と『ラジオ・エチオピア』を聴いた。
 パティはその存在感からいつも気になっていたが、わたしにとっては、メイプルソープとの関係の方が興味深かった。

 わたしは、メイプルソープを女性ボディ・ビルダー「リサ・ライオン」の写真で知った。写真集が83年に発売され、その写真展が日本で開催されていた頃だと思う。そしてその後、彼のセルフ・ポートレート、男性ヌード、花などの作品を知る。メイプルソープが89年にエイズで亡くなる前後は、世界的にも話題となり、わたしも大好きだった。花の写真も好きだったが、男性器をアップで撮影した写真には驚いた。写真にして発表してよいものなのかと、不思議に思ったものだ。

 それからしばらくして、わたしの友人が「お兄ちゃんがたいへんなの」と連絡してきた。話を聞いてみると、彼女のお兄さんが、メイプルソープの写真集を国内に持ち出し、再び日本国内に持ち込もうとして、税関で没収されたというのだ。しかも、それはすでに日本で販売されている写真集で、お兄ちゃんとはその写真集を日本で出版している、アップリンクの代表取締役の浅井隆さんだった。それから浅井さんは、国を相手取って闘うこととなる。詳しい顛末は、アップリンクのサイトに書かれているので、そちらを読んでいただきたい。

 それぞれのアーティストとの個別の話ばかりになってしまったが、こんなユニークな人たちが集まって公演をするなんて、なんて楽しいのだろう、とわたしは思う。こんな機会を逃したくはない。 [次回6/15(水)更新予定]

■公演情報はこちら
http://www.parco-play.com/web/play/poetspeaks/