『ネヴァー・セイ・ノー・トゥ・ア・ロック・スター:イン・ザ・ステューディオ・ウィズ・ディラン・シナトラ・ジャガー・アンド・モア……』グレン・バーガー著
『ネヴァー・セイ・ノー・トゥ・ア・ロック・スター:イン・ザ・ステューディオ・ウィズ・ディラン・シナトラ・ジャガー・アンド・モア……』
グレン・バーガー著

『ネヴァー・セイ・ノー・トゥ・ア・ロック・スター:イン・ザ・ステューディオ・ウィズ・ディラン・シナトラ・ジャガー・アンド・モア……』
グレン・バーガー著

●トラック・ファイヴ ボブ・ディランズ・ブラッド・オン・ザ・トラックス:ジ・アントールド・ストーリーより

 1974年9月、フィル・ラモーンが電話の後、興奮して私に知らせに来た。「ディランがコロンビア・レコードに復帰し、俺たちと新しいアルバムをレコーディングするぞ!」と。そういう時代だった。私たちは熱かった。そして、驚くべきプロジェクトが、次から次に生まれていた。
 
 ディランは、ユダヤ歴の新年祭に当たる9月16日を、レコーディングの開始日に選んだ。レコーディングは、スタジオA-1で行われることになった。このスタジオは、1930年代から使われてきたコロンビアの由緒あるレコーディング・ルームで(68年にラモーンに売却される)、ディランが初期の作品に取り組んだ場だった。《ライク・ア・ローリング・ストーン》に代表される彼のさまざまなヒット曲が、このスタジオでレコーディングされた。

 私はアシスタント・エンジニアという仕事柄、スポイルされたアーティストに慣れ、接し方も仕込まれていた。だが、ディランの過剰なまでの自己防衛は、広く知れ渡り、フィルは神経を尖らせて、私に念を押した。

「コロンビアからの電話か? 彼は人前に出ることに疑心暗鬼になっていると言われた。だから、誰も中に入れないようにしないといけない。彼は後ろ盾と一緒にやってくる。いいか、コントロール・ルームに入るのは、俺とおまえだけだ。で、おまえは……近づくな」

 フィルはまた、ディランからバンドを用意するよう求められていた。だがその日は、ほとんどのミュージシャンが、休みを取っていた。フィルはかろうじて、バンジョーとギターの名手、エリック・ワイズバーグを見つけた。

 ワイズバーグは、彼のバンド、デリヴァランスを呼び寄せた。彼らは、映画『デリヴァランス』のサウンドトラックをレコーディングした一流の奏者だった。

 ミュージシャンが、集まりはじめた。最初に到着したのが、ワイズバーグだった。彼は、優しく温厚な人柄で、椅子やマイクを用意する私に対しても、温かい声をかけた。私は、バンドのドラムス、ベース、ギター、キーボードをセットし、ディランのマイクを中央のスペースに置いた。

 ディランはスタジオの騒めきをよそに、コロンビアの幹部であり恋人でもあるエレン・バーンスタインとともに、こっそりと入ってきた。彼は、私たちに見向きもしないで俯いたまま、“Hello”と低い声で呟き、コントロール・ルームの片隅に引きこもった。誰も彼の私的な空間に立ち入ろうとはしなかった。

 私がスタジオとコントロール・ルームを駆け回り、セッションの準備をしていた時、ジョン・ハモンドが姿を見せた。スタジオの空気が和らいだ。ハモンドは、ディランを発掘しコロンビアと契約を結ばせた、ゆかりのある人物だった。

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