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「話題の新刊」に関する記事一覧

本当の戦争の話をしよう
本当の戦争の話をしよう 国際紛争の現場で、戦闘をやめさせる交渉や平和を維持するための仕事に携わってきた著者が、18人の高校生を相手に行った連続講義をまとめた。  教室では多くの問いが投げかけられる。「日本の平和は何のおかげ?」「内戦や紛争に他国が介入する理由は?」。テロとの戦い、「自衛」と戦争の関係、集団的自衛権と「国連的措置」(集団安全保障)、国連による武力行使のジレンマなど様々な事例をもとに話し合う。東ティモールでは反体制ゲリラを掃討したが、シエラレオネの新政府ではゲリラ出身者を厚遇した著者。どの対立でも双方に言い分があり、争いを収めるために不平等な手段を取らざるを得ないこともあったという。  国や民族同士の対立はなくならず、万能の解決策もない。「悪者を作るのは正義の側だ」という言葉が印象に残った。「どんな『正義』の熱狂のなかにあっても、僕らの正義を『悪』のほうから見ようとする少数意見」が大事だと説く。自分の正義に熱狂せず、他者の事情に思いを馳せることから始めるしかないのだと思う。
ズームイン、服!
ズームイン、服! 同時代を生きる老若男女の着こなしを取材し、イラストと文章で一人ひとりについて考察をまとめた記録集。……といっても、有名人のファッションチェックではない。登場するのは全国的に知名度の低い地方在住のデザイナー・作家など。目的は当人も自覚していない着こなしの「無意識」の部分を読解することだ。  彼らに共通するのは既製の衣服をただ購入・消費するのとは異なる独自の姿勢を持つこと。ストッキングを珈琲で染めたネックレスを制作するデザイナー姉妹、ゴミとなった服を回収して再販売する古着屋経営者……一見異色に見える感覚を、本書ではお金に代わる「新しい経済」と呼ぶ。彼らの半生を通して、現在の地点に行きつくまでの過程が明かされる。例えばデザイナー姉妹は家族で作品制作を分担していたりと、地方在住ならではの強みが描かれているのも読みどころだ。「着る」という身近な行為が、最終的には社会の話へと結びついてゆくダイナミズムは興奮モノ。読み終える頃には、自分も誰かの着こなしを考察したくてたまらなくなる。
聖地巡礼
聖地巡礼 「聖地を巡る」と聞くと、神聖な空間をまわる敬虔な信徒の像が浮かぶだろうか。本書はそれとは異なる「観光的巡礼」というありかたが近年登場していることに着目し、現代社会と宗教とのつながりを考え直したものだ。  歴史的に本物と受け止めづらい「キリストの墓」、伊勢神宮などに代表されるパワースポット──これらはいずれも観光地的な聖地として近年、注目を集めている。「嘘くさい」と切り捨ててしまえばそれまでだ。だが、著者は実際にキリストの墓がある青森県新郷村に足を運び、村の観光協会が主催するキリスト祭や、墓にある種のスピリチュアリティを認めて祈る客の存在を紹介し、見るべきはむしろ「宗教的な真正性が強く主張されない」点にあると強調する。こうした新たな巡礼地の魅力は、住民や観光客の主観やつながりのなかで「聖地」がつくられていく過程にあるのだ。  著者はほかにも国内・国外各所の観光的巡礼地を歩いており、本書の間に挟まれるそこでのエピソードが面白い。単なる「解説」に終わらせず、身体を張って検証する姿に好感が持てる一冊だ。
自分を傷つけずにはいられない 自傷から回復するためのヒント
自分を傷つけずにはいられない 自傷から回復するためのヒント 著者は子ども・若者の自傷や依存症治療の第一人者の精神科医で、本書で「自傷の本質は『人に助けを求めたり、相談したりしても無駄だ。人はあてにならないし、必ず私を裏切る。でも、自傷は決して私を裏切らない』という考え方にある」と書く。自傷はその人が弱いからではなく、「自分に厳しくて、根性がある」から起きる、と一般常識を覆す。  本書で示される回復法はとても具体的だ。自傷日誌をつけ、出来事と自傷の関係を分析する。自傷したくなったときには香水を嗅ぐ、氷を握るなど刺激の置換を行う。信頼できる人に話してみる。頑張りすぎない。苦手な人にも思いを伝えてみる。それでも自傷してしまっても、焦らない。さらに、精神科医の選び方。医師仲間が多く、臨床心理士や精神保健福祉士と協力している方がいい。驚嘆すべき技術を持つ稀有な医師ではなくて、常識と誠意を持つ普通の人がいいとも。  著者の「人生において最も悲惨なのは、ひどい目に遭うことではなくて、一人で苦しむことだ」という言葉は、自傷を超えて普遍的だ。
善と悪 江夏豊ラストメッセージ
善と悪 江夏豊ラストメッセージ 江夏豊。記録にも記憶にも残る稀代の名投手だ。シーズン401奪三振、オールスターでの9連続奪三振。阪神退団後は複数の球団を渡り歩きストッパーとして活躍し、優勝請負人と呼ばれた。一方、歯に衣着せぬ発言も多く、監督との確執は絶えなかった。  現役時代の逸話や、強面の外見も手伝い、豪放磊落な印象が強いが、本書を読むと江夏像は一変する。酒を飲まず、几帳面。気配りを重視する。だからこそ、気遣いできない他者とは激しく衝突する。  全盛期の王貞治、長嶋茂雄を向こうに回して数々の記録を打ち立てた江夏は「豪腕」のイメージが先行するが、現在も語り継がれる「江夏の21球」はまさに打者との駆け引き。「投げて、打つ」だけの野球界に打者心理や投球術を持ち込んだ第一人者である。私生活でも相手の心理に人一倍、気を遣うのは不思議な話ではない。  10年以上付き合いのある著者は公私で江夏の一挙手一投足に気を配る。恐れているのではない。敬っているのでもない。惚れているのだ。男が男に惚れるとはこういうことか。
ニッポンの音楽
ニッポンの音楽 日本ではなくニッポン。こう書くと少し軽やかな感じがするが、そうした印象は1960年代末から現在までの、わが国におけるポピュラー音楽の歴史を語った本書の内容とよく調和している。幅広い教養を持ち、近年は早稲田大学でも教鞭をとる著者が、自身の批評活動の原点である音楽について考察する。  本書では、70年代のはっぴいえんど、80年代のYMO、90年代の渋谷系と小室系、ゼロ年代以降の中田ヤスタカという“時代の顔”と呼べるミュージシャンたちを取り上げ、彼らを洋楽を盛んに聴いて育った「リスナー型ミュージシャン」と位置付ける。その系譜に、二種類の外部の存在(「洋楽」と「音楽以外の文化的/社会的事象」)との緊張に満ちた関係性をからめ、それぞれの時代における音楽の本質がどこにあったかを解き明かす。 「『歴史』とは、今とこれからを考えるためにこそある」と著者は語る。歴史を糧として、今後はどのような物語が紡がれるか。本書はポピュラー音楽の系譜を知る資料としてはもちろん、「これからの音楽」を考える上でも確かな足がかりとなる一冊だ。

この人と一緒に考える

発表会文化論
発表会文化論 「発表会」と聞けば、ピアノなど習い事を思い出す人が多いだろう。本書はそれに限らずアマチュアの出演者自らが出資する公演全般を対象にその機能を見つめ直す、いわば「大人のための発表会論」だ。  歴史、行政、学校教育、産業との関連などを多領域の研究者たちが炙り出してゆく。惹き込まれるのはこれまで気に留めてこなかった分野が現状「発表会化」していることを気づかせる章だ。ミュージシャンとしても活動する宮入恭平は、出演者がライブハウスに所定の金額を支払う「ノルマ制度」がライブハウスの発表会化、ひいては文化産業化をもたらしている現実に警鐘を鳴らす。またミュージアム研究者の光岡寿郎は、画家自らが出品料を払う「公募展」という制度に着目する。今日では時に「権威的」と揶揄されることもある公募展。だが、その裏で見落とされる、日曜画家たちによる「成長確認の場」というもう一つの顔を指摘する。瑣末な対象を扱っているようだが、その実「発表会」という場を通じ、芸術に対する社会の視線を問い直す書だ。
男しか行けない場所に女が行ってきました
男しか行けない場所に女が行ってきました エロ雑誌の仕事に携わってきたライター、漫画家である田房永子による風俗ルポ。AVの撮影現場やパンチラ喫茶、おっぱいパブなど男しか行けない場所、女が知らない場所について紹介する。男の欲望に沿った情報を提供するのではなく、男の風俗や欲望に対する著者の違和感、驚き、不満、疑問など、これまで記事にできなかった本音を楽しいイラスト付きで解説している。  潜入調査をしてその世界を隅々まで見てきたからこそ気付くことのできた著者の疑問には鋭さがある。例えば「DVD個室鑑賞」は、男たちがここを利用するのは必ずしも欲望を解消するためではなく、「仮眠のための利用も多い」ということを知る。そして、女性には「DVD個室鑑賞」のような「安価で安全にカギがある個室で仮眠できる」ところがまったくないことに初めて気付き、愕然とする。  女性の強姦未遂の体験談までもが男の娯楽となっている深夜番組や、AKB48の「風俗っぽさ」まで、男によって男のために作られた世界に、女性の立場から痛快なツッコミが加えられる。
朝鮮と日本に生きる 済州島から猪飼野へ
朝鮮と日本に生きる 済州島から猪飼野へ 朝鮮半島で生まれながら人生の大半を日本で暮らさねばならなかった〈在日〉詩人による回想記。時折「憤怒」や「憎しみ」を口にせずには語れない壮絶な人生には、言葉を失うばかりだ。 「解放」(終戦)の時に涙するほどの皇国少年は、青年となり、南朝鮮だけの単独選挙に反対して起きた武装蜂起に加担する。「済州島四・三事件」と言われるこの事件で、島では「アカ狩り」を掲げた軍や警察による無残な大量虐殺が起きた。当然ながら著者にも生命の危機が迫ってくる。監視の目から逃れ、日本への密航船に乗り込むまでの過程は、当事者の証言ならではの臨場感が伝わり、思わず手に汗を握ってしまう。  日本でも、どこにも属せない心細い生活が続く。そんな中、心を癒やしてくれる詩や仲間に出会うことで、〈在日を生きる〉ことへの意味に目覚めていく。著者は自らの立場に、南北対立を超えた「民族融和」という意味を見いだし、「和合せよ」とメッセージを送る。苦難を乗り越えて、平和を歌う著者の言葉だからこそその力は強い。
女子力男子
女子力男子 化粧品や美顔ローラーを愛用するビューティー男子、女子顔負けのかわいいポーズで自撮りするぶりっこ男子、今一番欲しいものが圧力鍋で、しっかり者の主婦のようなおかん男子──。「さとり世代」や「マイルドヤンキー」といった言葉を広めた、気鋭のマーケティングアナリストが次に注目するのは「女子力男子」だ。  かつてはマッチョでエネルギッシュであることが男らしく、モテの対象でもあった。近年の男子は「草食男子」に代表されるように、どこか頼りなく、女子に押されがちに見える。  本書では、それをマイナスの変化ではなく、「男子の女子化」という進化ととらえ、数多くのデータや、女子力が高い男性81人のインタビューなどから、「女子力男子」の姿を浮き彫りにしていく。冒頭のような「◯◯男子」には驚かされるが、「男らしくあるべき」といった既存の価値観にとらわれることなく、自分の好きなことを体現する彼らは自然体で、楽しそうだ。「女子力男子」は、性別や画一的な価値観から解き放たれた、多様化の象徴的存在なのかもしれない。
科学の現場 研究者はそこで何をしているのか
科学の現場 研究者はそこで何をしているのか STAP細胞事件は、「科学」に対する社会の信頼を大きく揺らがせた。研究の現場では今、何が起きているのか。本書は東大を退官した医学研究者が、「真理追究」というより「生活の手段」という側面から科学にスポットを当て直したものだ。  マスコミが報道するのは、傑出した研究業績を上げた人か、スキャンダルにまみれた研究者か、どちらか。しかし、そのいずれも「両極端」と著者は言う。科学といえど、一種の競争社会。予算を求め国や民間に研究成果をプレゼンしなければ生き残れない現状の姿は「俳優兼プロモーター」に近い。  科学者の評価を決めるのは結局のところマスコミへの露出ではなく、研究(論文)内容だ。しかし地位を得るほど学務や教育に時間を取られ、研究現場から遠ざかることも「否定できない事実」という。研究者自身が語る「にっちもさっちも行かない現状」だからこそ、具体的な説得力が伴う。期待を裏切られる部分もあるかもしれないが、研究者志望の若者などには現実を知る良い教科書になるだろう。
びあんか・うたうら【決定版】
びあんか・うたうら【決定版】 本書は1989年、92年にそれぞれ刊行された第一歌集『びあんか』、第二歌集『うたうら』の復刊決定版である。 〈水浴ののちなる鳥がととのふる羽根のあはひにふと銀貨見ゆ〉(『びあんか』)  私たちが日常的に目にしている、耳にしているもののなかに、著者にしか見えないもの、聞こえないものがある。それは羽根の隙間の銀貨だったり、蜘蛛の足音だったり、星座の匂いだったりする。そんなかすかな感覚を繊細に感じとってしまう感受性に、読者はひりひりとし、また、惹きつけられるのである。 〈雲ちぎれちぎれてあをき肉見ゆる明日なき鳥のくちばしのため〉(『うたうら』) 『うたうら』では、雲が途切れて見える青空を「あをき肉」と言うなど、荒々しさが加わる。繊細なだけではない、激しさを含んだ魅力を、この2冊を通して感じることができるだろう。山本健吉文学賞や若山牧水賞を受賞してきた著者が、25年前の「まるで別人のような」自分について綴ったあとがきも興味深い。まっすぐに歌を信じる、初々しい著者のすがたが浮かぶようだ。

特集special feature

    主夫になろうよ!
    主夫になろうよ! タイトルから、誤解してはいけない。会社を辞めて、専業主夫になることを男性に推奨する本ではない。著者も妻が小学校教諭で自身は作家と主夫の二足のわらじを履く。夫婦の働く環境の変化に臨機応変に対応できる「新しい家族のあり方」のヒントが詰まっている。  写真入りでの主夫の一日や、生活を綴ったエッセー、主夫のお悩み相談室と題されたQ&Aコーナーを読み進めると、多くの男性には想像が難しい「主夫」のリアルな姿が見えてくる。  家事を「手につける職としては最高」と評価する。労働環境が不安定な現代においては、会社に依存しすぎるのは危険だ。2枚目の名刺として「主夫」は意外にも現実的な選択肢なのかもしれない。 「用意周到に進めようとせずに、相手の足りない部分をおぎなっていく」。肩に力を入れず、自然と主夫になっているのが理想と説く。「女性が輝く社会」の実現を政府は打ち出しているが、実現には男性の意識変化こそ不可欠である。本書はその処方箋となりうる言葉がちりばめられている。
    この人たちについての14万字ちょっと
    この人たちについての14万字ちょっと 作家・重松清氏が池澤夏樹、浦沢直樹、いとうせいこう、山田太一、赤川次郎、酒井順子氏ら9人に迫ったインタビュー&人物ノンフィクション集だ。人選の基準は「インタビューの最初の質問で声が震えてしまいそうなひとに限る」と記す。  伊集院静氏からは、月刊誌「小説新潮」に連載していた長編小説『黒い犬』の中断理由について「日本人の中に狂気に対していつもなにかを考えてるような奴はもういないんだ」との言葉を引き出す。映画監督・テレビディレクターの是枝裕和氏からは、テレビの連続ドラマを途中の回から見ても面白いように作る手法をめぐり、自分の作品が「途中参加がしにくい構造になったのは、俺が長編小説を書こうと思ったからなんだよ」との思いを聞き出す。 〈次作が待ち望まれている〉ことが「プロフェッショナル」の定義だと、あとがきに書く重松氏は、自分自身にも、その言葉を投げかけているのであろう。“インタビューの可能性”を大いに感じる真剣勝負の一冊である。
    メモリースティックポップカルチャーと社会をつなぐやり方
    メモリースティックポップカルチャーと社会をつなぐやり方 九龍ジョーという奇妙な名前が気になるようになったのはいつからだろうか。「Quick Japan」「KAMINOGE」「BUBKA」。いわゆるサブカル(好きな言葉じゃないが)にカテゴライズされる雑誌の中で、何者かまだ知られていないけれど、何かを動かす力を持とうとしている人たちを、濃い鉛筆を原稿用紙に押しつけるような文章で吐き出している男だ。  本書は38歳のライター/編集者が2005年から各誌、ブログで書いた文章をまとめた一冊である。松江哲明、前野健太、大森靖子、プロレス、アダルトビデオ、国家論、女装、立川談志……、ページをめくるたびに、今はもうない九龍城のような魔窟に入り込んだような目眩に似た感覚にとらわれる。入り口も出口もないポップカルチャーの迷路だが、著者は不親切な道案内を提示してくれている。そんな道しるべを探しながら魔窟のドアをひとつひとつ開けていくスリルと快感が本書には満ちあふれている。次作は今の九龍ジョーが見ている“未来”を、彼自身が語る言葉で読んでみたい。
    セックスと恋愛の経済学
    セックスと恋愛の経済学 人間は非合理的に選択する時がある。最たる例は恋愛だろう。息子がモテなかったり、娘の性生活が奔放だったり、自身の結婚生活がうまくいかないのには科学的な理由が存在するのだ。本書では性愛に経済学の視点を持ち込むことで、いかに合理性でなく社会通念に囚われた思考をしているか気付かされる。  女性は食事をご馳走されても金額の多寡とセックスを結びつけないが、男性は高額な食事を共にするのならセックスの権利があると判断する。大学内の女性の数が男性よりも多くなると、処女の割合が下がる。働いている既婚女性は金額換算で1250ドル程度のメリットで不倫に走る。  本書に登場する調査結果や試算の一例だが、冷静に考えれば理解できる結果もある一方、驚きの結論である事例も少なくない。インターネットの発達と女性の教育機会の拡大が個人の性愛での振る舞いを変えたにもかかわらず、社会制度は変化を織り込めていない。そのため男女は意思決定を誤る。恋人を探すのにも家庭平和を維持するのにも持っておきたい一冊だ。
    丁先生、漢方って、おもしろいです。
    丁先生、漢方って、おもしろいです。 漢方医療の重鎮・丁宗鐵氏を先生に、イラストレーターの南伸坊氏が生徒となって漢方をめぐるあれこれを聞く愉快な講義。「漢方ってナニ?」から日本の医療制度、「鑑真和上はブータン人だ」説まで縦横に語っている。  時代劇ではよくヤブ医者に描かれるせいか、漢方は世間でちょっと疑いのマナコで見られているふしがある。だが、実は現代医学よりよほど効果のある治療も多く、いま認知症に最もよく使われるのも漢方薬だという。  驚くのは、漢方薬では同じ薬が正反対の症状、たとえば下痢と便秘の両方に効いたりすること。西洋医学とはまったくちがう薬の考え方、未病、虚証、中庸といった漢方の概念は非常に理に適っていて、人の体は西洋医学一辺倒ではとらえきれないものだとわかってくる。  丁先生の話はアメリカ独立と高麗人参の関係や、カレーライスの起源にも及ぶ。とんでもないところから医療や健康の話に突入して、私たちの常識を軽やかに吹き飛ばしていく。  一方、シンボー君はええっ!?と驚いたり感心したりしながら絶妙の質問を繰り出す。二人の掛け合いがまことに楽しい。
    れるられる
    れるられる 『絶対音感』などの著作で知られるノンフィクション作家が、身近で遭遇した出来事を六つのストーリーとして綴った一冊だ。印象的なタイトルは、本書のテーマである「境界」と密接な関係を持つ。事件や事故はしばしば、人と人との関係を変容させる。その結果生じる、能動態の言葉と受動態の言葉の「境目」を著者は徹底的に見つめ返す。  例えば「絶つ・絶たれる」の章は、とある分子生物学研究者の自殺に焦点が当てられる。一見私的に見えるトラブルの背景に、著者は若手研究者をめぐる近年の労働環境の問題を指摘する。政府が掲げる「科学技術創造立国」の目標下、評価されるのは成果に直結する研究ばかり。その裏で学生やポスドク(博士号を持つ任期つき研究員)はあえぎ、結果「自らをこの世から消滅させるしかないところまで追いつめられる」──他分野の研究者にも痛みを伴い響く言葉だ。「特殊な自殺者」はいつの間にか身近な存在に引き寄せられている。  エッセイのようでルポルタージュ的、社会学的でもある本書はそれ自体、書物のジャンルを越境する試みと言える。

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