『たそがれ清兵衛』は8編を収めた短編集だ。主人公はいずれもうだつの上がらぬ下級武士で、それぞれ「たそがれ清兵衛」「うらなり与右衛門」「ごますり甚内」「ど忘れ万六」などのあだ名がついている。

 出版されたのは1988年。わが道を行く主人公にはモーレツサラリーマン社会を揶揄するような雰囲気もあって、どの作品も密度が高くおもしろい。

 表題作の主人公は30代半ばの井口清兵衛。日暮れになると毎日そそくさと帰るので「たそがれ清兵衛」と呼ばれている。その清兵衛が、なぜか家老の杉山頼母に呼び出された。

 藩は厄介ごとを抱えていた。筆頭家老の堀将監の専横である。2年続きの凶作で財政が逼迫。それに乗じ、財力のある回漕問屋と結託して家老にのしあがったのが堀だった。藩主の交代を画策し、自身は贅沢にふけり、反対派を弾圧する堀。見かねた杉山らは重職会議の場で堀に退陣を迫り、聞かなければ即座に討ち取る計画を立てる。藩主の意を取りつけて罪人を斬る上意討ちである。そこで討手に抜擢されたのが清兵衛だった。この人は剣の名手だったのだ。

 ところが清兵衛はいった。

<そのお役目、余人に回してはいただけませぬか>

 会議の時間が問題だと彼はいう。<夜分はその、それがしいろいろと、のっぴきならぬ用を抱えておりまして……>

 清兵衛には労咳で伏せっている妻がいた。清兵衛は炊事、掃除、洗濯、病妻の排尿の世話まで、家内の仕事すべてをひとりでこなしていたのである。

 家老たちの配慮もあって、清兵衛は仕事を引き受けるが、しかし当日、約束の時間になっても清兵衛は来ない。はたして彼は命を果たせるのか!

 藩の一大事より、上司の命令より、自身の名誉より病妻が大事。並の木っ端役人や下っ端サラリーマンじゃなかなかこうは行きません。だからこその新しいヒーロー像。こんな風にきっぱり断ってみたいものです。

週刊朝日  2020年11月20日号