おしゃれな女性誌の編集部を退職し、畑違いの『月刊現代詩』に移った「わたし」。谷川直子『四月は少しつめたくて』は、宮澤賢治の「永訣の朝」くらいしか詩の記憶がない新米女性編集者が、詩が書けなくなった大物詩人に新作を書かせるべく孤軍奮闘する物語である。
 13年も詩を書いていないという詩人の藤堂孝雄は、新人とはいえ40歳をすぎた「わたし」こと今泉桜子に出会うなり「きみ、金持ってる?」といった。連れていかれた先はパチンコ屋。2度目に会って出かけたのは大井競馬場。「詩人が金持ってるわけないだろ。持ってたら詩人じゃない」とうそぶく藤堂。教科書にも作品が載っていた60歳すぎの詩人のダメさに「バカじゃないの、こいつ」と思いつつ「じゃあ競馬をテーマにした詩を書いてくださいよ」と彼女はあくまで粘るのだが……。
 もうひとりの視点人物は、元文学少女で藤堂が主催する詩の教室に通う「私」こと50代の主婦・清水まひろ。彼女は一人娘があらぬ疑いをかけられ、口を利かなくなったことに悩んでいた。その娘の本棚に藤堂の詩集があったのだ。リーダブルな読み心地にもかかわらず、こうして小説は徐々に詩の言葉とは何かというディープな世界に踏み込んでいく。
 桜子の求めに応じなかった藤堂が新聞のシャンプーの全面広告に詩を寄せていた。「なんで新作がここに載ってるんですか?」と詰め寄る桜子に藤堂はいった。「新作? それは詩じゃない。ボディコピーだ」「こんなひどい詩は書かない。金に目がくらんで広告の仕事を引き受けたんだ」。で、その作品とは──。
〈涙とともに/夜を明かしたことのないものは/朝の光の中でまどろむ/乙女の髪の冷たさを知るはずもない/その艶やかなうねりの中の/深いかなしみが/彼女をいっそう美しく輝かせることさえも〉
 なるほど微妙かな。作者は高橋直子名で競馬エッセイなども出していた期待の作家。さて、詩とコピーの差があなたには理解できるか。

週刊朝日 2015年5月1日号