このタイトルを見てハッとした。私もそう思ってたからだ。先に書かれた! でも読んでみたら、私が思っていたことと、この人の意見は微妙に違っていた。著者は刑務所の更生支援にも関わる大学教授で、多くの「犯罪者」と出会って、彼らの「罪を犯してしまったことへの反省の弁」をいっぱい聞くことになる。捕まえた側もすぐ「反省すること」を求める。需要と供給みたいなもんで、「少年院経験者は“反省の技術”がうまくなる」という。つまり反省し慣れて上達するわけだ。
 なぜ上達するのかといえば罪を繰り返すからだ。繰り返し罪を犯して捕まって、早く出たい一心でまた反省してみせる……。著者の岡本さんは、自分が事故を起こした時のことを思い起こし、表面的な反省の裏には「反省どころか怨みや責任転嫁の気持ちがいっぱい」だったことに気づく。
 ここまでは「ああ、まったくそうだ。自分が何かヘマして謝るようなことになった時も、自分の罪を軽くするためのツールとして“反省”を利用してるな」と、岡本さんの言うことに激しく頷く。犯罪者に反省させたところで更生なんかしない、というのはそういう意味だ。
 さて岡本さんと私と、微妙に違う考えとは何かというと、岡本さんは「表面的な反省=上手な反省文とか神妙な態度とか」をやめさせて、もっと罪を犯した自分の内面に向き合わすようにするべきだと主張している。うーん。それって、結局は「反省」にすぎないのではなかろうか。表面上の反省じゃなくて真の反省って、それも「上手にやるやつ」が登場するんじゃなかろうか。反省なんかするから(させるから)いかんのでは。
 心でいくら悪逆非道なことをやったって罪にはならない。要は「実際やらない」ことだ。私も、岡本さんの言うような「心からの反省」をたくさんした。でもそれで気がすんじゃって、また失敗するわけですよ。反省してるヒマがあったら別のことでもやって犯罪するヒマなくせ、と私は言いたい。

週刊朝日 2013年7月26日号