2018年9月、初公開された西郷隆盛の書簡の原本。末尾に「西郷拝」の署名がある=福井市の福井県庁(c)朝日新聞社
2018年9月、初公開された西郷隆盛の書簡の原本。末尾に「西郷拝」の署名がある=福井市の福井県庁(c)朝日新聞社

 小松帯刀は薩摩藩の筆頭家老である。十傑の武士のなかではもっとも家柄がよく、門閥の出身である。知名度は西郷隆盛・大久保利通に劣るかも知れないが、文久二年(1862)、島津久光の率兵入京で薩摩藩が中央政局に深く関与するようになってから、久光に代わって在京薩摩藩のリーダーとなった。

 とくに元治元年(1864)の禁門の変(元治甲子戦争)では幕府と距離を置きつつ、長州藩を撃退した。薩長同盟では長州の徹底抗戦路線を受け止めて締結を決断した。小松の功績でとくに大きいのは大政奉還の勅許を得たことである。大政奉還といえば、土佐の後藤象二郎が主役だと思われているがそうではない。政権返上の建白も大事だが、問題はその後で、朝廷にそれを勅許させることはもっと大事だった。小松は将軍慶喜の真意を確認したうえで、ついに勅許を得て王政復古への道を切り開いたのである。

 木戸孝允は長州の攘夷路線が敗北して朝敵になるなかで、滅亡寸前の藩を立て直し、犬猿の仲だった薩摩藩との提携を熟慮の末実現して、長州を明治維新の一方の主役に浮上させた。

 十傑で唯一公家から選ばれた岩倉具視も指導力はなかなかである。公家といえば、軟弱で強い方になびく日和見主義のイメージがあるが、岩倉はそれと異なり、豪毅だった。王政復古への確たる信念を維持し続けた。薩摩藩(とくに大久保利通)と結んでの「討幕の密勅」の下賜は岩倉の策であり、家柄は低かったが、動揺しがちな王政復古派の公家、中山忠能らを常に統御した。 軍事面に限定すれば、やはり長州の大村益次郎だろう。四し境きょう戦争での幕府軍の撃破、上野戦争での彰義隊の掃討と、雑音を物ともしない徹底的な指導力が光った。明治になってからも徴兵制の実施など軍隊の近代化路線では一貫していた。

◎監修・文/桐野作人
きりの さくじん/1954年鹿児島県生まれ。歴史作家、武蔵野大学政治経済研究所客員研究員。著書に『本能寺の変の首謀者はだれか 信長と光秀、そして斎藤利三』、『龍馬暗殺』(吉川弘文館)、『愛犬の日本史』(平凡社新書)、『明智光秀と斎藤利三』(宝島社新書)、『薩摩の密偵 桐野利秋 「人斬り半次郎」の真実』(NHK出版新書)、ほか多数。

暮らしとモノ班 for promotion
ニューバランスのスポーツウェアがAmazonセールで30%OFF!運動時にも普段にも役立つ機能性ウェアは何枚でも欲しい♪