岡山県倉敷市真備町
岡山県倉敷市真備町

本当にぞっとして、たいへんなところに来たんだなと

 増補された部分を読み終えたところで、写真集を最初からめくってみる。その途端、あの震災当時の光景がまざまざとよみがえってきた。

 体育館の床一面に敷かれたブルーシート。そこ並べられた大量の写真。この写真に写った、いったいどれほどの人が亡くなったのだろう。窓の外に横たわる巨大な船。ボランティアの人たちの素敵な笑顔。その落差のあまりの大きさに視線が泳いでしまう。

 浅田さん自身、撮影現場でこれだけの写真が流された事実を突きつけられ、その深刻さを肌で実感した。

「本当にぞっとして、たいへんなところに来たんだなと思いました」

 ちなみに真備町の場合、写真の9割以上は持ち主によって持ち込まれた。それが「被災地の写真洗浄の現場として、本来どうしても拭いきれないはずの重い空気が少ないことの理由」(福本さん)だった。一方、東日本大震災大震災では「誰かの手で拾い集められてきた持ち主が不明のものばかりでした」(同)

 浅田さんに震災当時の取材の様子をたずねると、「うーん、なんと言って表現したらいいんだろうなあ」と、沈黙した。いつものような明るさはなく、インタビューは途切れがちとなった。

 2011年3月11日、浅田さんは青森県八戸市の人々のポートレート写真を展示する「八戸レビュウ」を「八戸ポータルミュージアム はっち」で開催していた。

 震災発生直後から、はっちは避難所となった。その後、浅田さんはボランティアを申し出たが、「もっと被害の大きなところに行った方がいい」と助言を受け、八戸の友人らと車で南下。たどり着いたのが岩手県野田村だった。

ひたすら目の前の写真を一枚一枚洗うしかなかった

 そこでの初日、支援物資の仕分け作業を終え、帰り道での出来事だった。役場の玄関脇で写真を洗う青年たち姿が目に飛び込んできた。思わず声をかけた。すると、「写真を拾ってきて、洗っているんです」。

「人手がぜんぜん足りないと言うので、『ぼく、写真をやっているので手伝いたいです』と申し出たんです。そこから野田村での写真洗浄を一緒にするようになりました」

 そしてこの日以来、浅田さんは10年近く被災した写真の修復作業と関わるようになるのだ。野田村での写真洗浄活動と並行しながら、藤本さんとタッグを組み、各地の洗浄拠点を訪れ、取材した。

 先に書いた真備町のケースと比較して、浅田さんはこう語る。

「真備町では写真を持ち主が持ってくることが多くて、それを元に返すというゴールが明確に見えているなかでの作業でした。でも、東日本大震災のときは写真を洗ってもそれを見つけてもらえる確証はまったくなかった。みなさん信念を持って作業をしていても、どこかでそういう不安を感じていた」

 大きな街ごと流されてしまうような災害だったので、写真の枚数も桁違いに多かった。

「洗っても洗っても、という感じ。でもみんな、目の前の写真を一枚一枚洗うしかなかった。こんなに大量の写真をいつ洗い終えるんだろうと、途方に暮れるような感覚。洗ったら洗ったらで、これをどこに保管するんだろう? 体育館いっぱいに広げた写真をどうやって見つけてもらうんだろう? とか、撮りながらどうしても考えてしまうところがありましたね」

宮城県名取市閖上地区
宮城県名取市閖上地区

家族写真をアルバムにする本当の意味を初めて知った

 震災の少し前、浅田さんは写真集『浅田家』(2008年、赤々舎)で木村伊兵衛写真賞を受賞した。家族写真がテーマだったが、家族アルバムはあまりにも身近すぎる存在だったこともあり、特に興味はなかったという。

 転機となったのは、ずばり、家族アルバムをテーマとした写真集『NEW LIFE』(10年、同)をつくったことだった。兄の結婚、子どもの誕生にきっかけに「新しい家族で一冊つくるということで、写真集を家族アルバムふうなつくりにしました」。

「でも、まさか震災で家もない、食べ物もないという状況で、こんなにも多くの人たちが家族アルバムの写真を救おうとするとは、まったく想像しなかった。家族アルバムに秘められたチカラをまざまざと感じました。それまでも、なんかいいなあ、素敵だなあ、と思っていましたけれど、家族写真をアルバムにする本当の意味をこのとき初めて知ったんだと思います」

 でも、震災で泥まみれになったたくさんの写真を見るのは、正直つらかった。そう、浅田さんに伝えると、「ぼくらの世代はどうしてもあのときのことを思い出してしまうので、重い空気を感じてしまうことはあるでしょう」と、前置きしつつ、こう続けた。

「重いテーマですが、たくさんの人が手に取ってもらえるように、読みやすい文章とさり気ない写真で伝えているつもりです。この本は時代が変わっても読んでほしい。写真学校の後輩たちにもぜひ読んでもらいたいと思います。これからも自然災害は起こるでしょう。そんなときに写真が必要とされた。写真を救おうとしたたくさんの人たちがいたことを知ってもらいたいと思います」(文・アサヒカメラ 米倉昭仁)