現在の青梅街道・天沼陸橋。マンションが立ち並ぶ(撮影/井上和典・AERAdot編集部)
現在の青梅街道・天沼陸橋。マンションが立ち並ぶ(撮影/井上和典・AERAdot編集部)

■ドイツ「ツェッペリン飛行船」の伝説

 そんな杉並線の拠点となった「杉並車庫」の検車場と工場の上家屋には、かねてから“伝説”があった。これらの上家屋は、かつて茨城・霞ヶ浦にドイツから来航した「ツェッペリン飛行船」の格納庫として使われていたものだった、というのだ。

 この「ツェッペリン飛行船」とは、ドイツのツェッペリン社によって建造された飛行船のことで、第一次世界大戦では偵察や爆撃を行う飛行船部隊としても活用された。その後は幾多の改良が加えられ、後述の世界一周をした「グラーフ・ツェッペリン号」は1929年、日本にも立ち寄っていた。その際、霞ヶ浦の飛行場に着陸、一時的に格納されていたという。

 筆者はこの話を沿線在住の愛好者から伝聞したことがあり、廃止時の新聞記事にも掲載された記憶がある。半世紀も前のことなので確証を諦めていたところ、友人がネット上で「北海道新聞 夕刊 1963年12月9日(月)」の掲載記事を探してくれたので、確認することができた。以下に抜粋を紹介する。

『<東京寸描> かつてのドル箱路線も廃止 都電杉並線が11月末日で姿を消した。(以下中略)最後の日は花電車でお別れした。同線の車庫はかつてドイツの飛行船ツェッペリン号が来たとき、格納庫代わりに使われたことがあるが、これもいずれスクラップになる予定だ-という。』

「ツェッペリン飛行船」の格納庫の一部が使われたといわれる杉並車庫の特異な上家屋。手前の棟は検車場で奥の棟は工場として使われていた(撮影/諸河久:1963年4月29日)
「ツェッペリン飛行船」の格納庫の一部が使われたといわれる杉並車庫の特異な上家屋。手前の棟は検車場で奥の棟は工場として使われていた(撮影/諸河久:1963年4月29日)

 もう少し詳しい事情を時系列に調べると、以下の経緯が推察された。

*第一次世界大戦の戦勝賠償としてドイツからツェッペリン型飛行船の格納庫を獲得。それを帝国海軍霞ヶ浦航空隊(茨城県・霞ヶ浦南畔の阿見地区)に移築建設して、日本でも飛行船の運用を試みたようだ。

*1929年8月、エッケナー船長が操船する「グラーフ・ツェッペリン号」が世界一周飛行の途中で日本に来航した。飛行船格納庫を備えた霞ヶ浦飛行場に着陸し、再飛行に向けて整備を受けた。ちなみに、ツェッペリン型飛行船(LZ127型)は、全長235.5m、最大直径30.5m、重量55.6t、水素容量75000立方メートルの巨大なスペックだった。

*第二次大戦が始まると、超巨大建築物であるこの格納庫は、空襲の目標になるために解体撤去された、と伝えられている。

*戦後、解体された格納庫の資材を活用して、東京工業大の体育館などが建造された。前出の杉並車庫も、都電の車庫上家屋としては特異な形態をしており、霞ヶ浦からの資材を転用して建設されたものと思われる。
 
 都電廃止後、この杉並車庫は都バスの車庫(現在は小滝橋自動車営業所杉並支所)として使われているが、当時の遺構は残されていない。かつてツェッペリン号が格納された庫の面影を伝える「杉並車庫」。その存在感をあらためて知ることができた。

■撮影:1963年11月30日

◯諸河 久(もろかわ・ひさし)
1947年生まれ。東京都出身。写真家。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経てフリーカメラマンに。「諸河 久フォト・オフィス」を主宰。公益社団法人「日本写真家協会」会員、「桜門鉄遊会」代表幹事。著書に「都電の消えた街」(大正出版)「モノクロームの東京都電」(イカロス出版)などがあり、2018年12月に「モノクロームの私鉄原風景」(交通新聞社)を上梓した。

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