2020年のオリンピックに向けて、東京は変化を続けている。同じく、前回の1964年の東京五輪でも街は大きく変貌し、世界が視線を注ぐTOKYOへと移り変わった。その1960年代、都民の足であった「都電」を撮り続けた鉄道写真家の諸河久さんに、貴重な写真とともに当時を振り返ってもらう連載「路面電車がみつめた50年前のTOKYO」。今回は、隅田川に架かり、下町情緒あふれる江東区・深川と古くからの門前町・水天宮方面をつなぐレジェンド「新大橋」付近だ。
【写真】50年前と比べて今の「新大橋」は残念な橋!? 現在の写真はこちら
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夏の風物詩、隅田川花火大会がまもなくだ。その打ち上げ会場から少し下流に位置する「新大橋」は、江戸時代には「大川」と呼ばれた隅田川で、千住大橋、両国橋に次いで3番目に架けられた橋だ。両国橋を大橋と呼んでいたので、その下流に架けられた大橋の意味で「新大橋」と命名された。竣工は元禄6(1693)年。同時代に生き、深川に居を構えた俳人・松尾芭蕉も新大橋を句題にしており、浮世絵にも描かれた江戸の名橋だ。
それまで木橋だったが、明治があと数日で終わろうとする明治45(1912)年7月19日に、写真にある鉄橋として竣工した。アールヌーボー風の唐草模様に飾られた橋門を鑑賞しつつ、都電が渡河する橋として親しまれた。
都電36系統は錦糸町駅前を発して、住吉町二丁目~森下町~水天宮前~茅場町~桜橋~築地に至る6266mの路線だ。このうち隅田川を新大橋で渡る区間(新大橋~浜町二丁目)の開業は、新大橋が竣工した半年後の大正元(1912)年12月15日だった。まさに新大橋の竣工に合わせて開業した路線といえよう。
昭和初期は39系統(後に30系統)を付番され、新大橋を渡って錦糸堀から水天宮前を結んでいた。開業当初は東詰めの新大橋停留所が安宅町、西詰めの浜町二丁目停留所を新大橋と呼称していた。1967年12月までは、渋谷駅前から浜町中の橋を結ぶ9系統もこの新大橋を渡って森下町まで、朝夕のラッシュアワーに臨時運転された。
夏の早朝、新大橋の東詰め(深川方面)で新大橋を渡ってくる都電を狙う。米カーネギー社の輸入鉄材を使ったトラスが「ゴー」と共鳴する。隅田川を渡河してきた36系統錦糸町駅前行きがファインダーの中に入る。後方からの車や自転車に被られないことを祈って、シャッターチャンスをうかがった。