父清長がそうであったように、家長も家康から一字をもらうなど、代々の主従関係にあった。

 石川数正の組で先手を務め、「力量人に勝れ、騎射の達者」と称された。遠江国二俣城を攻めた際には、その弓勢を目にした城主の依田信蕃から、「近代無双、今弁慶と称すべし」と恐れられた。相当な腕力を見せつけたのだろう。

 家康の部将達が敵味方に分かれ争った、三河一向一揆の際には終始家康の側に付いた。家康の嫡男・信康が自害を強いられた際には付属の士25人を、宿老の石川数正が徳川を捨てて豊臣秀吉のもとへ走った際には、馬乗同心80を預けられている。

 小田原城の包囲には兵50騎と雑兵数百人を率いて参陣すると、家長の容貌を見て感銘を受けた秀吉から、「将帥の器にあたれり」として、鉄砲30挺を与えられた。

 関東入国時には、上総国佐貫に2万石を与えられ、伏見城の副将を拝命。鳥居元忠らとともに西軍足止めの大役を果たし、討ち死にした。

※週刊朝日ムック『歴史道 Vol.25 真説!徳川家康伝』から抜粋