ヤクルト・安田猛
ヤクルト・安田猛

 プロ野球選手は入団時に「契約の譲渡」(第21条)を含む統一契約書を交わしているので、トレードを通告されても異議を申し立てることはできない。トレードを拒否して引退した1985年オフの巨人・定岡正二の例がよく知られているが、過去にはトレードをあくまで拒否した末、残留を勝ち取った選手も何人か存在する。

【写真】巨人を出たことで輝きを取り戻した選手がこちら

 1973年オフ、中日へのトレードが内定しながら、最終的にロッテ残留となったのが、外野手の池辺巌だ。

 トレードのきっかけとなる事件が起きたのは、同年9月19日の阪急戦だった。

 2点リードの9回、大橋穣のライトへの大飛球を追った池辺は、フェンスを背に構えた際に、ボールがグラブをかすめ、捕球に失敗。このプレーが阪急の猛反撃を呼び、試合は引き分けに終わった。

「フェンスに気を取られた緩慢なプレー」と怒った金田正一監督は、池辺に2軍落ちを命じた。当時2人は性格的に合わなかったといわれ、皮肉にも直後、チームが5連勝したことから、主将の池辺の立場は微妙なものになった。

 そして、シーズン後、金田監督は「悪いようにはしない」と池辺にトレードを通告する。相手はロッテコーチ時代に池辺を育てた与那嶺要監督が率いる中日で、外野の層が薄いという点でも、確かに悪い話ではなかった。

 11月末、金田監督自ら名古屋に足を運び、中日側と投手の竹田和史、内野手の三好真一と1対2の交換トレードが内定したことを発表した。

 だが、球団側が「トレードは球団同士の合意で成立するもの。池辺は12年間もウチにいた選手」(石原春夫代表)と待ったをかける。池辺もアメリカンスクールの幼稚舎に通う長女が翌春、新小学1年になるなど、家庭の事情から「東京を離れたくない」とトレードを拒否した。

 その後、中日がドラフト1位・藤波行雄の入団など、外野陣の補強に成功し、池辺獲得に消極的になったこともあり、最後は本人の希望どおり残留が決まる。

 すべてが徒労に終わった金田監督は「トレードというものがこんなに難しいものとは……」と考え込む結果となった。

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久保田龍雄

久保田龍雄

久保田龍雄/1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。

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