最後の“ドラフト外”選手となった横浜ベイスターズ時代の石井琢朗
最後の“ドラフト外”選手となった横浜ベイスターズ時代の石井琢朗

 今年もドラフト会議で支配下69人、育成57人の計126人が指名された。その一方で、上位指名候補に名を挙げられながら、指名漏れする選手も毎年何人かいる。

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 現行の制度下では、これらの選手は、次のドラフトまでチャンスを待たなければならないが、過去には、指名されなかった選手をドラフト外という形で獲得できた時代もあった。

 そして、ドラ1以上に活躍したドラフト外出身選手も数多く存在する。

 指名選手の入団拒否も多かったドラフト草創期。ドラフト外は、思いどおりに補強できなかった球団への救済策でもあった。

 ドラフト外から多くの逸材を発掘したのが、西武の前身球団・西鉄だ。

 1967年に基満男、70年に加藤博一がテスト入団。基は通算1784安打、189本塁打を記録し、加藤も大洋時代の85年に48盗塁をマークするなど、俊足を売りに活躍した。

 さらに72年には、大昭和製紙で安田猛とダブルエースだった加藤初を獲得する。

 加藤もヤクルト1位の安田同様、上位指名候補だったが、会社側が「同じ年に投手2人は出せない」とプロ入りを認めなかったため、指名を見送られていた。

 だが、プロ入りを熱望する加藤は、野球部と喧嘩別れのような状態で会社を辞め、プロ側のオファーを待った。

 のちに移籍する巨人も声をかけてきたが、「オレは強いところより弱いところに行って、力を発揮したい」と、投手陣の層が薄かった西鉄に入団。1年目に17勝16敗で新人王に輝き、巨人移籍1年目の76年にも15勝4敗の好成績で長嶋巨人のV1に貢献するなど、19年間で通算141勝を挙げた。

 V9時代の巨人も、69年に当時ドラフト対象外だった韓国籍の新浦寿夫(静岡商)、松原(福士)明夫(鳥取西)の両獲りに成功。新浦はのちに左のエースとなり、通団116勝、巨人時代は0勝3敗だった松原も南海、広島で通算91勝を挙げた。

 だが、夏の甲子園準V投手・新浦の獲得は、計6球団の札束が飛び交う争奪戦の末、高校1年中退での入団となったため、高野連から「自分さえよければというプロ野球のやり方は問題だ」とクレームがつくひと幕も。この一件を機に、外国籍の選手でも日本の中学、高校、大学に在学した者はドラフトにかけなければいけないという新ルールが導入されている。

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久保田龍雄

久保田龍雄

久保田龍雄/1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。

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指名漏れからのドラフト外入団で活躍したのは?