若き日の徳川家康像が立つ浜松城公園
若き日の徳川家康像が立つ浜松城公園

「犬のように忠節」と称賛された三河武士たち。主君家康は、全盛期の関白秀吉に「私は殿下のように名物茶器も名刀も持たないが、私のために命を賭けてくれる五百ほどの家臣が宝」と控えめに誇ったという。週刊朝日ムック『歴史道別冊SPECIAL 戦国最強家臣団の真実』では、「重き荷を背負い続けて」ついに天下を掌中に収めた家康と家臣たちの道のりを徹底解説。今回は、三河一国の平定までを追う。

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わずか二百五十騎から始まった
弱小・松平竹千代と家臣団

 徳川家康のもともとの名字は、松平氏といった。家康が生まれたころの松平氏は勢力も弱く、家臣団といっても、三河東部を本拠とする一門衆のほか、譜代の近臣が従っていたにすぎない。

 一門衆というのは、家康の曾祖父にあたる信忠以前に分かれた松平一族を指し、俗に「十八松平」と呼ばれる。一般的には、こうした一門衆は忠誠心が強いものだが、松平氏の場合は、そうではなかった。というのも、家康の家系は、松平氏の嫡流でなかったからである。

 しかもそのころ、隣国尾張の織田信秀が三河への侵入も図っており、家康の父広忠は、国衆のひとりとして今川義元に服属することになった。そのため、家康は今川氏の人質にされてしまったのである。戦国大名が国衆を服属させるとき、人質を徴集するのは、珍しいことではない。服属の証として、国衆は大名に人質を預けざるをえなかった。もし、国衆が裏切れば、人質はいうまでもなく、殺されてしまう。

 ちなみに、このとき人質となったのは、家康だけではない。酒井忠次・石川数正・阿部正勝・天野康景・平岩親吉・酒井正親といった有力な一門や譜代家臣の子弟も、家康に従って義元の本拠である駿府に赴いており、実質的な人質となっていたのである。そうした苦境を共有したことが、家臣団の結束を強めたという部分もあったろう。

 永禄三年(1560)の桶狭間の戦いで今川義元が敗死すると、今川氏と断交した家康は岡崎城を拠点に、三河東部の今川家臣を取り込みながら、徐々に今川の勢力を駆逐していく。

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家康が苦しめられることになったワケ