こうして、松平(形原)家広、松平(竹谷)清善といった一門衆のほか、野田城の菅沼定盈、作手城の奥平貞能、長篠城の菅沼貞景ら奥三河の国衆が家臣団に組み込まれた。

 永禄六年(1563)に三河で浄土真宗本願寺派の門徒による一向一揆が蜂起すると、家康は苦しめられることになった。門徒の家臣が、主君ではなく、一向一揆に荷担したためである。翌永禄七年に一向一揆を平定するが、この平定戦のなかで、家臣団の結束もさらに高まったらしい。

 一向一揆が鎮まり、家康の勢力が拡大するなか、二連木城の戸田重貞ら東三河の国衆が今川氏から離反して家康につく。家康が、西三河の中心であった吉田城に拠よる小原鎮実(大原資良)を追い出すと、今川方として残っていた牛久保城の牧野成定らも家康に服属した。こうして、家康は西三河をも押さえ、三河一国の平定に成功したのである。

週刊朝日ムック『歴史道別冊SPECIAL 戦国最強家臣団の真実』から抜粋