テルアビブ美術館の草間彌生展(ニシム・オトマズキン提供)
テルアビブ美術館の草間彌生展(ニシム・オトマズキン提供)

 草間彌生は、いわゆる日本女性のイメージとはかけ離れた存在です。1929(昭和4)年に長野県松本市で生まれ、京都市立美術専門学校(現・京都市立芸術大学)などで日本画の訓練を受けた彼女は、間もなくアヴァンギャルドやプロテスト・アートに熱中します。西洋で有名なもう一人の日本人アーティスト、ヨーコ・オノと同じように、 彼女は男性中心のタフなアートの世界で自らの道を切り開いたのでした。これは欧米人の多くが日本女性に対して抱く「良妻賢母」のイメージとは大きく異なります。

 彼女は若い頃から、世界的なアートの力関係に挑むことを決めていました。1957年に渡米。ニューヨークでの個展が話題となり、絵画だけでなくインスタレーションや過激なパフォーマンスも行いました。1966年のヴェネツィア・ビエンナーレには招待されず、自主的にゲリラ参加を決行し、メイン会場の外で作品を展示しました。しかも、彼女はビエンナーレの警備員に追い出されるまで、1500個の銀色の球体でできた自らの作品の一部を観覧者に売ることさえしていたのです。

 彼女はニューヨークを本格的な活動拠点にしましたが、そこには頑迷なギャラリーや美術館との大変な「戦い」が待ち受けていました。ニューヨークでは、同性愛者の結婚をめぐる闘いや、ベトナム戦争など、当時の政治的・社会的闘争と相まって彼女の作品が有名になりました。彼女が「前衛の女王」と呼ばれたのもこの頃です。このような不屈の精神や、形式にとらわれない態度をイディッシュ語では「フツパ」と言いますが、これは多くのイスラエル人が高く評価する心意気です。

 最後の理由として、草間彌生の芸術は、有名な日本の「わびさび」美学とはかけ離れていることが挙げられます。欧米で大成功を収めている日本の建築や禅的志向の芸術は、ほとんどがシンプルな黒、白、グレーを前面に押し出したものですが、彌生作品はカラフルで楽しい。イスラエルの子どもたちにアートを教えている私の姉のナオミは、草間彌生のアートを見た子どもたちが笑顔になったと言っています。姉の話では、色彩に溢れ、想像力をかき立てる絵であることが、子どもたちに彌生作品が好かれる理由だということです。

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