これについて、前田さんはこう弁明する。

「『共産党候補が勝ったらバンザイをすると約束』もしたし、番組中に言葉はなくても『バンザイした』のも事実だ。嘘はないから抗議もできない。ただ問題は、この記事をきっかけにマスコミ(特に週刊誌)が一斉に『マエタケのバンザイ事件』をかき立て、なかには本番中に『共産党バンザイ』と叫んだとか、公器を使って一党に偏した政治宣伝をした、マエタケは共産党員だ、とまで書かれてしまったことだ」(同上)

 実際に「共産党バンザイ」とは言っていない。だが当時のフジテレビ社長の逆鱗に触れてしまい、前田さんは「夜のヒットスタジオ」の司会を交代させられた。表向きの理由は番組イメージの一新だったが、メディアも前田さん自身もそうは受け止めていない。「バンザイ」によって降ろされたと理解した。

 やがて、前田さんはテレビ、ラジオの仕事のほとんどを失うことになる。

「テレビ・ラジオ欄のどこを見ても私の名前は見当たらない。スケジュール表はどこまでも空欄になっている。ファンレターもぱったり途絶えてしまった。事務所の電話も鳴らない」(同上)

 テレビ、ラジオの司会業をほされた状態が続いたが、前田さんの才能にラブコールを送る業界があった。

 映画である。

 山田洋次監督に声をかけられ、「男はつらいよ 私の寅さん」(1973年)に出演する。「金環蝕」(1975年)、「吾輩はである」(1975年)、「晴れ、ときどき殺人」(1984年)、「ドン松五郎の生活」(1986年)、そして「釣りバカ日誌シリーズ」(1988~ 1996年、松竹)にも出ている。

 テレビにも少しずつ復活した。

 1980年代、早朝の情報番組『朝のホットライン』(TBS)の天気予報コーナーで、「ザ・お天気マン」としてレギュラー出演するようになった。因縁のフジテレビでは「笑っていいとも」にゲスト出演している。

次のページ