堀田正俊の孫・正亮によって供養された宗吾霊廟
堀田正俊の孫・正亮によって供養された宗吾霊廟
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甚大寺墓地にある堀田正俊の墓
甚大寺墓地にある堀田正俊の墓
正俊は事件後大手門そばの屋敷へ運ばれた
正俊は事件後大手門そばの屋敷へ運ばれた

 忠臣蔵と言えば赤穂浪士が雪中を凱旋行進する映画などのイメージから冬の風物詩とも言えるが、きっかけとなった江戸城松の廊下の刃傷沙汰は3月に起きたものだ。ただ、このような刃傷沙汰は浅野内匠頭が起こしたものだけではない。しかも、多くの刃傷沙汰は夏に起きていて、いつの時代も暑いとムシャクシャしてしまい暴挙に出てしまいがちなのではないかと勘ぐったりもするのである。

 浅野内匠頭の起こした事件は、江戸城で最初の刃傷沙汰でもなければ最後でもない。唯一といえば、斬りつけたとはいえ殺害には至らなかった未遂事件でお家断絶にまでなったことだろう。なのにこの件のみが有名になってしまったのは、ひとえに歌舞伎や浄瑠璃といった演目となり人気を博したためでもあろうか。

●江戸城内の刃傷沙汰は1回ではない

 江戸時代に江戸城内で起こった抜刀の記録は、浅野内匠頭の件を含めて11件ほどあったと言われている。将軍警護の当番どうしの喧嘩や、バカ殿として名高かった藩主が逆ギレして襲いかかったものの鞘で受け流された事件など、解説するのもバカバカしいものもあるが、中には今でも歴史の謎として語られる事件もある。今回はそのような話をしてみたい。

●大老が若年寄に刺殺された事件

 忠臣蔵は、5代将軍・綱吉の治世に起きたが、綱吉亡き後、6代将軍・家宣によって浅野家は浅野大学によるお家再興が許されている。浅野家の処遇において綱吉の意向が強く働いていたのかがわかる話だ。

 ところがこれより17年前、貞享元年8月28日、本丸表御殿において大老・堀田正俊が若年寄・稲葉正休に殺害される事件が起きていた。稲葉はその場で周りの人間によって斬り殺され、襲われた堀田は即死は免れたが目覚めることなく自宅で死去している。

●犯人はその場で成敗され

 実は堀田正俊と稲葉正休は親戚筋にあたる。年は年少だが、正休は正俊のいとこの父にあたるので従叔父という呼ばれ方をしている。事件の前日の夜、2人は酒を酌み交わしながら雑談をしている。殺された正俊は、家光の死去に伴い殉死した父のあとをつぎ、当時の大老・酒井忠清と対立してまで綱吉の将軍就任を後押しした人物である。その後、失脚した酒井に代わり大老に就任するのである。

 一方、殺害した正休はその場で成敗されたが、ほぼ無抵抗だったとされ、「将軍家へのご恩に報いるため」という遺書が残されていたようだ。事件直後から、正休に対する同情の声が多くあがり、「傲慢だった正俊が悪い」といった空気が流れたらしい。稲葉正休は改易となるが浅野家のお家断絶に比べれば軽い処分である。もっとも正休に後継がいなかったので結果は同じではあるけれども。

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