ベトナム人技能実習生も、日本にいなければ、中絶できたかもしれない。安心して産めたかもしれない。ショッピングモールで出産した高校生も、緊急避妊薬を薬局で買える国に暮らしていたら。中絶薬を使える国で暮らしていたら。そして、高校生が妊娠しても学業を諦めなくてよく、シングルマザーへの公助が充実している国だったら。トイレで1人で産まなくてもよい未来があったかもしれない。
昔からえい児殺しはあった。そしてそれは個人的な事情とされ、国は女性たちを逮捕してきた。それでも本当にこれは個人的な事情なのだろうか。女性だけの責任なのだろうか。
避妊の知識を子どもに教えず、多くの国で緊急避妊薬は薬局で販売されているが日本産婦人科医会はそれを「時期尚早」として認めず、国際的に一般的である中絶薬すらなく、高額で女性の身体に負担の大きい中絶手術を強いる社会の責任はないのだろうか。男女の経済的格差を放置し、シングルマザーの貧困対策が不十分な国の責任はないのだろうか。そもそも妊娠の責任を半分背負うはずの男性の存在は、こういう事件の時、なぜいつも見えないのだろうか。
女性福祉関係者のもとには、望まない妊娠や性暴力の相談が例年に比べ数倍の勢いで増えているという。今後、もしかしたら同じような事件はさらに増えていく可能性はあるだろう。特に若年層の女性たちにとって、中絶へのハードルが高いことは、このような悲劇的可能性を生むことになりかねない。
増えているのか、それとも変わらないのか。1970年代はコインロッカーなどにえい児を遺棄する事件が多発し、「コインロッカーべビー」が社会問題となったが、今、「社会問題」にもならないほど、私たちは“慣れて”しまっているのではないだろうか。過去40年分の朝日新聞、共同通信の記事で「えい児殺し」「出産直後殺害」「遺棄」などのワードで検索してみたが、以前はここ数年ほどの勢いでは表示されない。いったいどういうことなのだろうか。
増えたのか、変わっていないのかは分からない。でも少なくとも「減っていない」こと自体が、妊娠するかもしれない身体を持つ女性たちに対して、社会の冷酷さが強まっていることの証しなのかもしれない。
■北原みのり(きたはら・みのり)/1970年生まれ。作家、女性のためのセックスグッズショップ「ラブピースクラブ」代表