下級の隊士である「村田」は、最高剣士の柱ですら瀕死の重傷を負う中で、無惨と対峙した際に「アイツが無惨…家族の仇…殺す…殺す!!」と日輪刀に手をかけようとしている。自分の実力不足を十分に認識しながらも、村田は、鬼舞辻に惨殺された仲間の死体を見てもなお、その闘志を失わない。村田以外の隊士たちも皆、仇のため、仲間を助けるため、残された家族や仲間を鬼に殺させないために、その身をささげている。

■戦う子どもたち、人柱になった子どもたち

 鬼殺隊の隊士たちは、その長・産屋敷耀哉(うぶやしき・かがや)に「子どもたち」と呼ばれている。産屋敷自身も23歳で、まだ若い当主であることから、一読しただけでは違和感もある。なぜ鬼殺隊は「子ども」と呼ばれるのか。

 まず、戦闘集団のトップと構成員の関係を「親―子」と表現することは珍しくない。卑近な例では、暴力団なども同様だ。だが、鬼殺隊では隊士たちがいずれも、親が殺されていたり、親がいなかったりとさまざまな境遇にあり、自らの子ども時代の思い出や心情にとらわれている人物が多いことが、その呼び名と関連している。

 鬼に親兄弟を殺害されなかった者たちも、鬼殺隊に志願した者は、隊士の勤めについて<いつ死ぬかわからないんだ>(我妻善逸/3巻・第19話「ずっと一緒にいる」)と認識しており、鬼殺隊とは<命をかけて鬼と戦い人を守るもの>(煉獄杏寿郎/8巻・第66話「黎明に散る」)と説明されている。自分の命をかえりみることなく、その身を悪鬼滅殺にささげる者たち、それが鬼殺隊である。

 彼らは損得感情や保身を捨てて、戦いの最前線に身を置く。まだ若く、別の人生という選択肢がありながらも、「他者の」死の運命に必死であらがおうとする。

「死ぬな!!俺より先に死ぬんじゃねえ!!」(不死川実弥/21巻・第179話「兄を想い弟を想い」)と子どものように泣き、神にかなわぬ祈りをささげるのは、柱だけでなく、他の隊士たちも同じである。人の願いも意思も踏みにじる「鬼」を消滅させるために、「鎮める」ために、隊士たちは「人柱」となって「他者のために」犠牲になり続ける。

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「少しでも何か役に!」と叫ぶ隊士たち