●京都でのおりょうの足跡をたどる

 それでも京都には、坂本龍馬とおりょうの足跡がいくつか残っている。おりょうは医師の楢崎将作の長女として京都に生まれた。裕福な家に生まれ育ったが、父が安政の大獄で囚われ赦免されるがすぐに病死、一家はすぐに生活に窮した。この生家跡に「お龍の実家 楢崎家跡」(京都三条木屋町)という碑が立てられている。龍馬と内祝言を上げたのは、父の死の3年後で、青蓮院の塔頭・金蔵寺でお披露目がされたという。父が青蓮院宮(中川宮)の侍医であったことの縁であろうか。今はもう廃寺となってしまった金蔵寺跡にも「坂本龍馬 お龍『結婚式場』跡」(京都市東山区)との碑が立つ。

●再婚とともに西村ツルと名も変え

 龍馬の死から7年後、結局土佐にも京都にも居場所をなくし、おりょうは東京に出てくる。だが頼みの西郷が本へ戻ってしまい、元海援隊の隊員たちを頼るも、結局、妹婿の元へ流れつくこととなる。そして神奈川の料亭で働き始めたとも言われるが、この地で寺田屋で見知っていた5歳年下の西村松兵衛という元商人の若旦那と再婚をするのである。そして、名もツルと改め、西村ツルとして残りの生涯を横須賀で暮らした。

●お墓は横須賀・信楽寺に

 おりょうは、明治39(1906)年1月に亡くなり、その8年後に横須賀の信楽寺にお墓が建てられた。墓碑銘には「贈正四位阪本龍馬之妻龍子之墓」と刻まれている。本来ならば「西村ツル」と刻まれるべきところ、このような銘となる由縁がおりょうの悲しい人生を物語る。まず、おりょうの死ぬ間際になって皇后の夢枕の話が広がり、おりょうのことが世の中に知られるようになった。このため、彼女の危篤の情報が伝わると、皇后宮の関係者などからお見舞いや募金が届けられるなど話題となってしまったのだ。また、おりょうは酔うたびに現在の夫である松兵衛に「わたしの夫は生涯、坂本龍馬だけだ」と言い募っていたという。加えて、未亡人となった実妹・光枝を呼び寄せて同居していたが、やがて光枝は松兵衛と夫婦仲になってしまい、二人は別に家を構えて出て行くことになるのだ。二人のおりょうに対する後ろめたさもあったのか、それとも「生涯龍馬の妻」という誇りを全うさせてやりたかったのか、光枝と松兵衛が他からの援助を受け、上記銘のおりょうの墓を建立する。

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