1990年代になるとスライダーやフォークなどを操る投手が増えていくが、2000年夏には意外な背番号をつけた投手が意外な変化球を武器に大活躍を見せる。東海大浦安の背番号4をつけた浜名翔だ。チームは千葉大会の直前にエースの井上大輔が故障し、セカンドの浜名が急遽主戦となると、激戦区千葉を勝ち抜いて甲子園出場を果たす。そんな浜名の武器がサイド気味のスリークォーターから投げ込む鋭いシュートだった。初戦の延岡学園戦では神内靖(元ソフトバンクなど)との投手戦に2対1で投げ勝つと、日大豊山、横浜、育英を立て続けに破って決勝進出。最後は智弁和歌山の強打に屈して準優勝に終わったものの、小柄な背番号4をつけた投手のシュートはこの夏を彩るものだった。

 2000年代の甲子園で最も強烈な変化球を操った投手となると、やはり田中将大(駒大苫小牧)になるだろう。2年夏には150キロをマークして優勝投手となり、現在ではスプリットの印象が強くなったが、高校時代の田中の最大の武器は鋭く横に変化するスライダーだった。スライダーを投げるときは肘が下がるためフォームから判別しやすいという声もあったが、それでも思わず手が出てしまうだけの鋭い変化だった。田中を打ち崩さなければ優勝はできないと考えていた智弁和歌山の高嶋仁監督は、相当なスライダー対策をして駒大苫小牧との準決勝に臨んだが、それでもリリーフで登板した田中に抑え込まれて敗れている。それくらい分かっていても打てないという必殺のボールだった。

 2010年代では吉永健太朗(日大三)と松井裕樹(桐光学園)の二人が印象深い。吉永の操った魔球はシンカーだ。鋭く腕を振りながらも、一度“ふわっ”と浮いてから鋭くブレーキのかかるボールに腰がくだけたような空振りを喫する打者が多かった。ボールの軌道としては左投手の投げるカーブやスライダーのようで、そのボールを右投手が投げるというギャップが最大の特徴と言えるだろう。2011年の夏にはこのシンカーを武器に6試合中5試合を一人で投げ抜き、チームを10年ぶりの優勝に導いている。

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昨年の甲子園で魔球を操ったのは?