同じ80年代、大洋とともに万年Bクラスに沈んでいたのがヤクルトだった。当時のエース・尾花高夫も、そんなチーム事情から勝ち星に恵まれなかった一人である。

 松岡弘に代わってエースとなった尾花は、在籍14年間で2203イニング連続押し出し四球ゼロ(プロ野球記録)という抜群の制球力を生かし、82年の12勝16敗を皮切りに4年連続二桁勝利を挙げたが、その間、チームは6位、6位、5位、6位と低迷。9勝に終わり、連続二桁の記録が途絶えた86年も最下位で、尾花はリーグワーストの17敗を喫している。さらに87年(4位)は11勝15敗、88年(5位)も9勝16敗と3年連続リーグ最多敗戦という史上ワースト2位(1位は大洋・秋山登の4年連続)の記録をつくった。

 ちなみに16敗した82年の防御率は、15勝を挙げた西本聖(巨人)の2.58に迫る2.60、2度目の16敗となった88年の防御率2.87も、18勝で最多勝の小野和幸(中日)が2.60で、15勝以上を挙げた他球団のエース級と比べても遜色がない。味方の援護に恵まれていれば、シーズン20勝も夢ではなかったはずだ。

 そんな不運にも、尾花は愚痴ひとつこぼさず、89年に通算100勝を達成したが、その後は故障に泣き、91年に34歳の若さで引退した。通算勝利は112勝。翌92年からヤクルトが6年間でリーグ優勝4回、日本一3度の黄金期を迎えたのは、皮肉なめぐり合わせだった。

 通算172勝の三浦大輔(DeNA)も、チームの弱体化が大台到達のネックとなった。

 横浜時代の97年に初の二桁となる10勝を挙げ、翌98年も連続二桁の12勝で38年ぶりVと日本一に貢献。“マシンガン打線”を擁したチームは、97年から5年連続Aクラスと安定していたことも追い風となり、三浦もこの5年間で53勝を記録している。

 ところが、チームは02年に最下位に転落すると、以後、15年までの14年間で最下位10度と長い低迷期に入る。当然三浦の成績も伸び悩み、勝ち越したのは05年の12勝9敗の一度だけ。07年と13年にいずれも13敗でリーグ最多敗戦を記録したばかりでなく、開幕投手として7連敗というプロ野球ワースト記録までつくっている。

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三浦は引退会見で「他球団に移籍していれば…」