京成立石を発車し、京成高砂を目指す押上線の普通列車。京成電鉄の車両のほか、相互直通運転をする東京都交通局浅草線と京急電鉄の車両も走る(撮影/平賀尉哲)
京成立石を発車し、京成高砂を目指す押上線の普通列車。京成電鉄の車両のほか、相互直通運転をする東京都交通局浅草線と京急電鉄の車両も走る(撮影/平賀尉哲)
押上駅前にあった東京都電の「押上駅前停留所」。写真は1948年3月、都電ストのため混雑する電停(C)朝日新聞社
押上駅前にあった東京都電の「押上駅前停留所」。写真は1948年3月、都電ストのため混雑する電停(C)朝日新聞社
押上駅は1960年に地下化され、写真のように入り口として駅舎が残っていた。写真は1963年の撮影で、駅名板には「京成・都営地下鉄」と書かれている(C)朝日新聞社
押上駅は1960年に地下化され、写真のように入り口として駅舎が残っていた。写真は1963年の撮影で、駅名板には「京成・都営地下鉄」と書かれている(C)朝日新聞社
都営地下鉄浅草線と相互乗り入れをするため、押上駅は地下化された。押上を出発した京成3050形が地上へ顔を出す(C)朝日新聞社
都営地下鉄浅草線と相互乗り入れをするため、押上駅は地下化された。押上を出発した京成3050形が地上へ顔を出す(C)朝日新聞社

 東京と成田を結ぶ京成電鉄は、創立から今年で111年目を迎える。開業当初の東京側のターミナル駅は、現在の上野ではなく押上(おしあげ)で、押上~青砥(あおと)間の京成押上線は京成でも古い路線のひとつである。現在は都心と成田空港とのアクセスを担う重要路線である押上線だが、その変遷はまさに波瀾万丈。『鉄道まるわかり009 京成電鉄のすべて』(天夢人)を参考に、108年の歴史を紐解いていく。

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■東京市電への乗り入れを目指し押上を起点に開業

 関東一円から信仰を集めていた成田山新勝寺に向けては、明治期から複数の鉄道敷設計画が申請されていた。後に京成の初代社長となる本多貞次郎の努力で一本化が図られ、1909年に京成電鉄の前身「京成電気軌道」が創立した。京成電軌の計画路線は押上から江戸川を渡り、市川~臼井~佐倉~成田とした。

 押上を東京側の起点としたのは、当時、押上まで路線を延ばしていた東京市電(後の都電)に乗り入れ、都心へ直通しようとの目論見があったからだ。このため軌間(レールの幅)は国鉄東海道本線などが採用し、日本の鉄道の標準になっていた1067ミリではなく、東京市電と同じ1372ミリとした。

 なお、本多は東京市電の前身となる東京市街鉄道工務課長を務めた人物で、同社から車体長7.6mの中古車両を譲り受ける予定だった。しかし、当時の監督官庁である鉄道院の指示で、オリジナルの車両を用意することになった。京成は、「軌道」でありながら高さのあるプラットホームを作り、路面電車のようなスタイルでありながら、床が高く、独立した台車を持つボギー式で、運転席が屋内にある最新式電車が投入された。

 建設は押上側から進められ、1912年11月3日に押上~青砥~伊予田(いよた/現・江戸川)間と曲金(まがりかね/現・京成高砂)~柴又間が開業した。ちなみに、曲金~柴又間は金町線の一部で、成田山と同様に広く信仰を集めていた柴又帝釈天(しばまたたいしゃくてん)への参詣(さんけい)路線である。

 なお、開業時の押上線は荒川放水路(現・荒川)が開削工事中で、地平を走っていた。しかし工事終了後は架橋する必要があり、架橋工事と並行して荒川(現・八広)~京成立石間のルートが変更された。

■浅草延伸を断念し、上野へ乗り入れ

 京成電軌は押上をターミナルとしたが、実際に東京市電へ乗り入れることはなく、乗客は押上駅で市電へ乗り換える手間が生じていた。このため京成電軌は隅田川を挟んで向き合う位置にあり、当時の繁華街である浅草への路線延伸を求め、1931年7月に特許(京成電軌は「軌道法」に準拠したため、事業認可は「特許」となる。鉄道事業法では「許可」)を取得したが、その2カ月前に東武鉄道が浅草へ延伸しており、京成の浅草延伸は幻となった。

 代わりに計画したのが上野延伸で、1933年までに上野公園(現・京成上野)~青砥間が開業した。東側は1930年までに京成成田へ延伸し、上野延伸によって現在の京成本線が全通し、上野~成田間には特急が設定されるなど、京成電鉄を支える一大幹線となった。その反面、創業路線の押上線はローカル線に転落していった。なお、終戦直前の1945年6月25日に京成電気軌道は京成電鉄へ社名を変更している。

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地味路線だった押上線に転機が