こうした背景には、長年にわたって一発屋芸人が消えにくくなり、その渋滞が起きているという事情がある。いわば「消えない一発屋」現象だ。

 たとえば、小島よしおは子供相手の営業で食いつなぎ、ダンディ坂野は「ゲッツ!」が15秒の短い尺に合うことからCMで生き延びた。ヒロシは老人ウケする芸風で「笑点」や「徹子の部屋」にたまに呼ばれ、キャンプ芸人としても話題だ。それぞれに味のある残り方をしているものの、こうした先例が生まれると、あとに続く者も真似するようになる。世の中も、どうせ消えずにうまく生き残っていくのだろうなという冷めた目で見守るようになるのだ。

 このため、境遇の変化が以前より劇的ではなくなった。それにより、この人は残るのか消えるのか、シビアな目で見てそこに諸行無常を感じるという芸能のひとつの醍醐味がうすれてしまったのである。

■山田ルイ53世の功績

 こうした生き方を正当化する役割を果たしたのが、山田ルイ53世だ。この人もひぐち君と組んだ髭男爵で「ルネッサーンス!」という一発ギャグを生み出し、そこそこ売れたが、その後消えつつあった。しかし、自身も含めた一発屋の生態を赤裸々に描いた著書「一発屋芸人列伝」で再浮上。その勢いで「ミヤネ屋」にパネリストとして呼ばれるようにもなった。

 その本には、こんな文章がある。

「昨今の“一発屋”の定義は、かつてのように『あの人は今』といったニュアンスではなく“一発屋という肩書”で仕事をする人間を指す。要するに、より狭義の意味に変じており、自ら一発屋と呼ばれることを許容した人間しか一発屋を名乗らないし、周囲も一発屋としてイジらない」

 まさに、彼自身がそういう一発屋なわけだが、このタイプの人は昔もいなかったわけではない。アラジンの高原兄や円広志などは、すでにそういう生き方をしていた。ただ、一発屋本人が自ら文章化したのは画期的なことだ。いわば、山田は「定義の書き換え」を行なうことで、自身も含めた芸人たちが一発屋を名乗り、いじってもらい、それを「職業」にするという道を切り拓いたのである。

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魅力的な猿岩石の物語