バラエティーでも才能を発揮した宮沢りえ (c)朝日新聞社
バラエティーでも才能を発揮した宮沢りえ (c)朝日新聞社

 アニメ映画「ぼくらの7日間戦争」が12月に公開される。1988年に宮沢りえが主演して女優デビューを果たした実写映画「ぼくらの七日間戦争」のその後を描くものだ。31年の歳月を経て、りえも声優として出演。彼女はこの秋、映画「人間失格 太宰治と3人の女たち」で太宰の妻を演じており、女優業は相変わらず好調のようだ。

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 しかし、デビュー当初は女優として高い評価を得ていたわけではない。87年に、後藤久美子とともに「美少女ブーム」で注目されたものの、まずはCMタレントとしてだった。その後、ドラマに出て、歌手デビューもしたが、初期の「大仕事」はなんといっても、ヌード写真集『Santa Fe』だろう。

 そのニュースが「朝日新聞」「読売新聞」の全面広告というかたちで告知されたのは、91年の10月。18歳の人気アイドルが脱ぐという前代未聞の話に日本中が大騒ぎとなり、1ヵ月後に発売されると155万部という空前絶後の売り上げを記録した。

 そして、この1年後、92年の10月にも彼女は日本中を騒ぎに巻き込む。のちの横綱貴乃花(当時は関脇貴花田)との婚約だ。角界で兄とともに「若貴」ブームを巻き起こしていたヒーローとの恋は、プロ野球西武の日本一というニュースを押しのけ、スポーツ紙の一面を飾った。

 それからしばらく、この「貴りえ」フィーバーは続き、やはり国民的人気者だった双子姉妹・きんさんぎんさんが「ハダカのおつきあい」と評したのも話題になった。ただ、このおつきあいは3ヶ月後に破局してしまう。両者はそれぞれ、会見を開き、りえは「悲劇のヒロインにはなりたくない」などと語った。

 これについて、メディアはこんな表現をしたものだ。

「代表作がなかったりえにとって、この会見が代表作になるだろう」

 破局に同情しつつも、女優としてさしたる結果を残していないことを皮肉ったわけだが――。では、メディアはいつ彼女を「女優」と認めたのか。あるいは、彼女はどこで、いかにして「女優」になったのか。ということについて、考えてみたいのである。

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宝泉薫

宝泉薫

1964年生まれ。早稲田大学第一文学部除籍後、ミニコミ誌『よい子の歌謡曲』発行人を経て『週刊明星』『宝島30』『テレビブロス』などに執筆する。著書に『平成の死 追悼は生きる糧』『平成「一発屋」見聞録』『文春ムック あのアイドルがなぜヌードに』など

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