小倉体制の名古屋はJ1開幕戦でジュビロ磐田に勝利し、続くサンフレッチェ広島戦を引き分けるところまでは順調だった。ところが、そこから黒星が先行。第1ステージは14位で折り返す。第2ステージでの巻き返しが求められたが、第1ステージから合わせて17戦未勝利という最悪の記録を作った。小倉監督兼GMへの不満も噴出し、クラブ側としても見過ごせず、休養という名の事実上の解任に踏み切った。その後、 ボスコ・ジュロヴスキー監督体制で出直し、母国・ブラジルに戻って引退状態だった田中マルクス闘莉王を呼び戻してテコ入れを図ったが、最終節で湘南ベルマーレに完敗し、こちらも史上初のJ2降格を突き付けられた。

 小倉はその後、名古屋を去り、地元・三重の東海社会人サッカーリーグ所属のFC.ISE-SHIMAの理事長に就任。日本サッカー界の檜舞台から離れた格好となっている。たった1度の、8カ月間のJリーグチャレンジで監督キャリアを絶たれかねない状況に陥るというのは、本当に厳しい現実だ。選手時代にスターとして祭り上げられた人物が指揮官になった途端、凄まじい批判にさらされるケースも多い。それだけ浮き沈みの激しい職業なのだと痛感させられる。

 近年の「ダメ監督」といえば、2011年に古巣・浦和レッズの指揮を執りながら、J2降格寸前のところまで追い込んだゼリコ・ペトロビッチ監督も挙げておきたい。J発足当初から下位常連だった浦和は1999年に1度、2部落ちを経験しているが、その後は育成やスカウト体制などを見直してチームを立て直し、2000年代後半にはJ屈指の強豪に君臨するようになった。闘莉王や長谷部誠らを擁し、2007年ACL制覇、FIFAクラブワールドカップ3位という大成功を収めるに至ったクラブを再び転落させかけた指導者ということで、浦和サポーターには苦々しい記憶として心に刻まれている

「サイドを幅広く使うアタックというオランダスタイルのサッカーを志向していたゼリコと、当時の戦力が全然マッチしなかったし、結局は原口元気のドリブル頼みという単調なサッカーになってしまいました。攻撃だけでなく守備も組織化されず、監督と選手の乖離も進んで収集がつかなくなりました」と当時を知るメディア関係者も言う。クラブ側は9月に柱谷幸一GM解任という大ナタを振るうが、抜本的解決に至らず、ナビスコカップ決勝を目前に控えた10月の大宮アルディージャとの埼玉ダービーに敗れたところで更迭を決断した。

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Jリーグでは監督の力で明暗が