「驚きましたよ。ICUの図書館に、サリン製造法の論文が所蔵されていたんです。つまり、化学の分野で大学院の学生程度の知識があれば、誰でも製造法がわかる。自分の身近に毒ガス兵器の製造法が書かれた文献があるなんて、ゾッとしました」(田坂さん)

 一方で、田坂さんは文献を読み、化学構造や製造法をきちんと理解できた。その結論は「一般人にサリンの製造は不可能」。長野県警は、事件翌日の6月28日に被疑者不詳のまま殺人容疑で河野さんの自宅を家宅捜索していたが、田坂さんは文献を調査した6月末の時点で「河野さんは犯人ではないのでは」と感じていたという。

 このことは報道番組でコメントを求められた時にも話した。7月7日に放送されたNHKの「クローズアップ現代」では、サリンの化学構造について模型を使って説明。市販されている有機リン系の農薬からサリンを製造することは極めて難しいと説明したうえで、「有機リンの化学の技術と知識、文献などを知り尽くした人でないと合成は不可能」とコメントした。

 サリンについて科学的な解説が報道されたことは、事件の方向性が変わるきっかけになった。番組を見た河野さんの弁護人である永田恒治弁護士が、サリン被害で入院していた河野さんと面会するよう田坂さんに依頼してきたのだ。都合がついた7月15日に河野さんと初めて会った田坂さんは、こんな印象を持ったという。

「話した瞬間に『犯人ではない』とわかりました。だって、私に『サリンって何ですか?』って聞くんですから。それで、持っていった文献を見せながらサリンの構造を説明したんですよね。専門的知識はないし、とてもサリンのような化学兵器を製造する人には見えませんでした」(田坂さん)

 河野さんの著書『「疑惑」は晴れようとも 松本サリン事件の犯人とされた私』にも、この日のことが書かれている。

<病室に見えた田坂氏に、私はてっきりいろいろ根ほり葉ほり聞かれると思っていた。ところがそんな様子は微塵もない。逆に、「河野さん、何かお知りになりたいことは」と聞かれる>

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記者にも河野さんの無実を説明