三成が秀吉に仕えた時、家臣はゼロだった。それが、関ヶ原合戦の時点では五千人以上の大軍団になり、いずれも一騎当千の強者が揃っていた。この中には、改易(取り潰し)になった旧大名家の家臣も少なくなかった。そこにも三成の「仁義」がよく表れている。

 そのうちの「若江八人衆」は、もとは豊臣秀次の家臣団であった。秀次は秀吉の甥だが、秀吉の命令で自刃に追い込まれた悲劇の武将であった。三成は秀次の死後、「若江八人衆」が路頭に迷うことがないよう、そのうち六名を自分の配下に組み入れたのだ。

 また会津百二十万石・蒲生秀行(氏郷の嫡子)が家中騒動の果てに禄を削られ、宇都宮十八万石に転封されたため、多くの浪人が出た。そのときに三成が抱えた浪人衆が「蒲生十八人衆」である。蒲生郷舎・蒲生将監・蒲生真令・蒲生大膳(真令の養子)・小川土佐・土肥六郎兵衛などの名前が残っている。彼らは三成の「仁義」に恩を感じ、それに報いるため懸命に働いた。もちろん「関ヶ原」でも奮戦の挙句、討ち死にした。

 三成の「仁義」に最後まで付き合ったのが、家老とも軍師ともいわれる島左近である。「三成に過ぎたるもの」の一つとされたほどの男で、三成に不足している武略を補って仕えたという。

 左近は最初に筒井順慶、さらに豊臣秀長・秀保などに仕え、秀保の死後に三成の家臣になった。当時、左近は多くの大名家から高禄で誘われていたが、それらを蹴って三成の誘いを受け、たった一万五千石で仕えた変わり者だった。

「信」と「義」に生きる三成が、戦国の世には珍しい「誠意の人」として左近の目には映ったのだろうか。

 戦場での華々しい活躍と武功で生きた武将らとは対照的に、三成はいわば常に「陰の存在」だった。時には秀吉の代わりに穢れ役となり、汚名を被ることも多々あったが、それをいっさい厭わなかった。

「それは三成の理想であり『大義』のためでした。秀吉を誰よりも大事に思い、秀吉こそが戦乱を鎮めてこの世に平和をもたらす人である、そう信じた三成の脳裏には、理想とすべき国家の姿があったでしょう。島左近は『三成の義』が、人の踏み行うべき大切な道義『大義』であると理解した唯一の家臣だったと私は考えています」(江宮氏)

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「大一・大万・大吉」大義の旗を掲げ