「関ヶ原」で散った三成の盟友といわれる大谷吉継も、島左近と同じ思いであったのかもしれない。三成は敗走後、古橋という村まで逃げ、そこは自分の領地だったこともあり、彼を慕う村人に匿われたという。しかし、東軍の捜索の手が伸びると、三成は自分の身柄を差しだすように言い、潔く名乗り出て捕虜となった。

 三成の「大義」は、その旗印「大一・大万・大吉」に如実に示されている。これは「一人は万人のために、万人は一人のために。それによって世の中に大きな幸いと幸福をもたらすことができる」という意味が込められた旗印という。

 三成にとっては「大義」の旗であり、これを掲げることで戦国時代の終焉、その後に訪れる平和の時代を標榜したに違いない。

「三成は捕縛後、京都・六条河原で斬首されました。斬られる直前まで命を惜しんだそうです。なぜなら、人間は最後の最後まで、本当に死ぬ直前まで、何が起きるか分からないと彼は考えていたためです。『大義』を胸に抱き続け、その可能性がある限り生き続けたかったのでしょう。合戦に敗れはしましたが、豊臣への忠義に生きたことへの悔悟はなかったはずです。三成には、たとえ敗れても家康の政権下で生きるという選択肢は、初めからなかったでしょう」(江宮氏)

 天下人となった家康が開いた江戸幕府。その武家政権においては、やはり「忠義」が重んじられた。たとえば脱藩は主君への裏切りと見なされ、切腹させられた。後世、三成のような「忠義」の人は誰よりも尊重される人材であったことだろう。しかし、三成の「義」は豊臣家だけに向けられた。それは、家康の「野心」とは相反するものだった。

「三成の目には、家康という人物は『五常の徳』を持ち得ない野心の持ち主としか映りませんでした。秀吉とともに生きた三成にとって『関ヶ原』は『義』の披露の場であり、死ぬことに何も躊躇いはなかったはずです」(江宮氏)

 主君への「忠義」、領民と家臣への「仁義」、国家への「大義」という「三つの義」を体現した三成。その思いは人々の胸に響き、後世へと語り継がれ、名を遺すこととなったのである。(取材・文/上永哲矢)

※週刊朝日ムック『歴史道 Vol.4』より