――ファインダー部がチタン外装。ボディーがアルミダイキャストになりました。

後藤:F4ではエンジニアリングプラスチックを多用しました。今から考えても丈夫な素材で、実際に丈夫ではあったのですが、それまでの金属カメラに対する印象に比べてよろしくなかったようです。それへの反動から、「これで文句あるか!」とオール金属、しかもペンタには無敵のチタンを採用したのです。

――交換ファインダーが売れないと嘆いていたことを覚えていますが、F5はファインダー交換可能な最後のカメラになりました。

後藤:Fの時代から、交換ファインダーは時代を経るに従って使われる数量が減少し、その影響で価格が高くなっていったこともあるのでしょう。

――F5は全体のフォルムとかカメラ部のメカニズムとか、今のデジタル一眼レフに共通するものがあります。

後藤:そうですね。フラッグシップのF4、エントリーからミドルクラスのF50やF70、F90など、操作系がバラバラだったこともあり「ニコンは会社が幾つあるのか?」などと言われたものでした。F5時代にようやく統一できたわけです。

――そしてデジタル一眼レフのD1が99年に登場します。

後藤:D1の開発は、社内でも一部の人しか知らないトッププロジェクトでした。私はD1用のカメラボディーと、AEやAF、新たなストロボシステムなど撮影に関わる機能を提供しました。

――簡単ではなかった?

後藤:撮像センサーや画像処理エンジンそのものが高くて大変だったようです。開発スタート時にはセンサー1個100万円という話を聞いたこともありました。

■デジタル化へ「APS-C機に救われる」

――実際に担当したのはD1Hからでしょうか。D2H/D2Xが出たときも、DXフォーマットで十分いけると後藤さんが話していた覚えがあります。今でこそDXフォーマットのカメラも役割分担ができて認知されていますけれど。

後藤:当時のニコンは、FX(35ミリ判フルサイズ)フォーマットのカメラを思いつく前の話ですね。D2Hに対しては、AFや高感度画質、トリミングなどの性能が足りず、世間から否定的な意見、さらにニコンにはそこまでの技術しかないなどという風評もありました。もっと前から市場に出てお客様の声を直接聞いておけばと、今でも悔やんでいます。ただその苦しいときにD100やD200が助けてくれましたね。DXの軽快さが認められてその後のD300、D500などに続きます。

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フラッグシップ機とはプロが認め、一般の人が憧れるカメラである