漁師たちをたばね、6次産業化に乗り出した坪内知佳さん(撮影/写真部・馬場岳人)
漁師たちをたばね、6次産業化に乗り出した坪内知佳さん(撮影/写真部・馬場岳人)

 2010年、24歳にして荒くれ者の漁師をまとめ上げ、萩大島船団丸を結成して、全国に先駆けて6次産業化に乗り出した坪内知佳さん。著書『荒くれ漁師をたばねる力 ド素人だった24歳の専業主婦が業界に革命を起こした話』にも描かれた取引先ゼロからの営業は独自のアイデアで突破口を開いた。現在の新事業でも活かされているその発想力の源泉を探る。

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 取引先、ゼロ。当時24歳の坪内知佳と萩大島の漁師たちが萩大島船団丸を結成し、獲れた直後の魚を船上で加工、港から契約先に直送する「粋粋Box」を始めた2010年、魚の売り先は1社も決まっていなかった。

 年々、漁獲量が減るなか、漁師たちの生活や萩大島の昔ながらの文化を守るためには、魚の直販をして利益率を上げるしかないという危機感から、「粋粋Box」は始まった。しかし、売り先がなければ絵に描いたに過ぎない。スーツを着て営業をするのは漁師たちに向いていないのはわかっていたから、取引先の開拓をするのは坪内の役目となった。

 シングルマザーで3歳の子どもを抱えていた坪内だが、自分が動かなければ事業が成り立たない。「粋粋Box」は坪内のアイデアでもあったから、腹をくくった。日帰りできる一番大きな都市、大阪で魚を売ろう。

▼編み出したカウンター営業

 朝9時、萩市内にある24時間営業の保育園に子どもを預け、電車に飛び乗る。大阪へ着くと、飲食店への飛び込み営業が始まる。そもそも、萩大島船団丸のことを知っている人がいないのだから、闇雲にアタックしても門前払いされるだけ。そこで知恵を絞った。

 グルメサイトを見て、いかにもこだわりの魚料理を出している飲食店をチェック。そのお店に行き、カウンター席に座って魚料理を注文する。若い女性がひとり、カウンターで魚料理を食べていたら、向かい側にいる料理人も気になるだろう。

 そこで話しかけられたら、少し会話をした後に、正直に身分と目的を明かし、「一度、魚を送るから使ってもらえませんか?」と頭を下げた。もちろん、話しかけられなかったら、自分から声をかけた。この方法で、萩大島で獲れた天然魚を知ってもらうためのきっかけを作っていった。

 まるで敏腕営業マンの作戦のようだが、それまで坪内がしてきた仕事と言えば、離婚後に始めた通訳、翻訳、調剤薬局の受付と事務、飲食店のアルバイト。モノを売るための飛び込み営業などしたことがなかったのに、どうしてこの作戦を思いついたんですか? と尋ねると、坪内は懐かしそうに笑った。

「そんな立派なものじゃないですよ。もし自分が飲食店のスタッフだったらどんな人と会話するかなと考えたら、お客さんだって思ったんです。きっと、『すいません、魚買ってください。話を聞いてください』という営業はごまんと来てるんですよ。でも、客として店に行けば邪険に扱えないじゃない(笑)」

▼体重に正比例

 坪内は、独自のカウンター営業でお試しの「粋粋Box」を送る飲食店を1軒、2軒と地道に増やしていった。坪内も漁師たちも、萩大島の天然魚の質には絶対の自信を持っていたから、一度食べてもらえば興味を持ってくれるところは少なくないだろうと考えていた。

 期待通り、しばらくすると送った魚を高く評価して、「粋粋Box」の話を聞きたいという飲食店が出てきた。そこから正式に取引を始めるためには、商談が必要になる。坪内は1日に最大4件のアポイントを入れ、終電まで大阪の町を駆け回った。時間帯によっては、食事をしながらの商談もある。せっかくのチャンスを前にそれを断ることができず、ひとつの商談を終えた後にトイレで食べたものを吐き戻し、次の商談に向かったこともあった。

 聞いているだけで胸焼けしそうなこの体当たり営業で坪内はどんどん太ったが、そのかいあって半年で20店の契約を獲得した。体重に比例するように、10キロ増になった頃には契約先が123店になった。不健康極まりない生活だったが、坪内は立ち止まらなかった。

 カウンター営業から9年。「粋粋Box」の契約先は右肩上がりで伸び続け、500件に達した。当初、坪内や漁師が担当していた請求書、納品書など事務手続きは、2014年に坪内が立ち上げた株式会社「GHIBLI(ギブリ)」のスタッフがまとめて請け負っている。

 坪内は現在、コンサルタントとして高知、北海道、鹿児島の漁業者と6次産業化に挑んでいるが、その取引先もギブリがゼロから開拓してきた。ただし、もう1日に商談を4件入れるようなハードな営業は必要ない。

「テレビを見ました、うちにも送ってくださいというお客さんが増えましたからね。どこの海で獲れたのか、なにが獲れたのかの前に、私の仕事に興味があったり、応援していただくような感覚だと思います。もちろん、魚も間違いない品質のものを送ってきたから、お客さんからは『とにかくいいのをください。お任せで』と言われることも多いですよ」

▼喫茶店で育まれたアイデア

 1年ほど前から坪内が力を注いでいるのは、真珠の事業。日本では真珠も水産物として魚と同じような流通なのだが、近年、コットンパールという真珠を模したプラスチックが出回ったことでジュエリーとしての真珠のニーズと消費が落ちた。

 それに伴って真珠の養殖業者や真珠をジュエリーに加工してきた職人が激減。坪内は奈良時代から記録があるこの伝統産業を守るために、これまで規格外とされてきた真珠のなかでも生産者の思い入れのあるパールを買い取り、ジュエリーデザイナーと組んでオリジナルブランドを立ち上げた。現代的なデザインで、手に入りやすい価格に設定することで、産地や事業者、職人を守ろうという考えだ。

 これまでは講演などで手売りをしてきたが、6月からクラウドファンディングをスタートする。これまで裏方だった生産者と職人を前面に出し、誰が作った真珠を誰に加工してもらうか選択できるようにした。現場の人間に光を当てて広く存在を知ってもらい、仕事のきっかけを増やそうと考えたのも坪内だ。

「鮮魚BOX」のカウンター営業や真珠のクラウドファンディングなどのアイデアは、どこから生まれてくるのか。そのヒントは、坪内の幼少期に関係している。

 かつて、故郷の福井駅前で祖母、叔母、母親の3人が喫茶店を開いていた。母に連れられた坪内は、幼い頃からこの喫茶店で朝から晩までお客さんの話を聞いて過ごしていた。福井には起業家が多く、お客さんにはビジネスマンが多かった。そこには明るい話も、深刻な話も混在していた。そのなかで、坪内も仕事について思いを馳せていた。

「子どもの頃に何百、何千というビジネスの話をひたすら聞いていたから、いつも自分だったらどうしたかな、自分には何ができただろうって考えていました。大人は理想ばかり言ってるけど、もっとこういうふうにしたら世の中が変わるかもしれない、とか(笑)。そういう時間がたっぷりあったんですよ。今思えば、その頃の感覚のままですね」

 家族からすれば予想外かもしれないが、坪内は喫茶店で聞いた話やその時に感じたことを今も覚えている。その想いとアイデアを胸に、世の中を変えようとしているのだ。
(文中敬称略)