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昔なら考えられない! 日本代表と海外移籍事情の変化

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元川悦子dot.
欧州クラブでの活躍をジャンプ台に一気にA代表レギュラーの座をつかんだ堂安(写真:getty Images)

欧州クラブでの活躍をジャンプ台に一気にA代表レギュラーの座をつかんだ堂安(写真:getty Images)

 日本は2019年アジアカップ(UAE)で8年ぶり5度目の優勝を目標に掲げながら、決勝でカタールに完敗し、王座奪還を逃す失意を味わった。ただ、20歳の堂安律と冨安健洋がA代表初の国際大会でスタメンとして戦い続けたことは1つの成果だった。彼らは18歳で海外移籍し、欧州クラブで積み重ねた実績を武器に一気にA代表レギュラーの座をつかんだ選手という意味で、過去の代表選手たちとは異なる道を歩んでいる。

 日本は92年広島、2000年レバノン、2004年中国、2011年カタールと過去4度のアジアカップ優勝経験があるが、最初の広島大会はまだJリーグ発足前。カズ(三浦知良)のようなブラジルでプロになって帰国した「逆輸入選手」はいても、日本で育ったプロ選手が海外に買われていくというのは夢のまた夢だった。

 それが2000年レバノン大会の頃になると、そういう例がポツポツ出始める。98年フランスワールドカップ直後に中田英寿がペルージャ(イタリア)へ移籍。名波浩も99〜2000年にかけてベネチアへのレンタルで赴いた。希代のレフティの挑戦は失敗に終わり、わずか1シーズンで古巣復帰することになったが、中田を呼べなかったこの大会でエースナンバー10はMVPに輝いた。それも貴重な国際経験がもたらしたものに違いない。

 ただ、この頃は「海外へ行くのはA代表の中心選手」という価値観がまだまだ根強く、20歳そこそこの若手がいきなり外へ出ることが認められる時代ではなかった。それを如実に示したのが、99年ワールドユース(ナイジェリア)準優勝のいわゆる「黄金世代」。日本攻撃陣の中心だった小野伸二、ベストイレブンに入った本山雅志、エースFW高原直泰らには欧州スカウトが殺到してもおかしくない状況だった。実際に食指を伸ばそうとしたクラブもあったという。

 だが、日本人代理人(現在の仲介人)が数人しかおらず、選手が代理人をつけるというシステムも確立していなかったため、コンタクト先はJクラブになる。Jクラブとしては「新人選手はじっくり育てて24、25歳で中心になってもらう」という常識だったから、移籍を容認するはずがない。結果的にナイジェリア大会の後、誰1人として海外に出なかった。

 その後、小野と稲本潤一は2001年にフェイエノールト(オランダ)とアーセナル(イングランド)にそれぞれ赴き、高原もボカ・ジュニアーズ(アルゼンチン)に行ったが、当時21〜22歳。「非常に早い段階の海外移籍の例」という見方をされた。これは今の価値観から考えると驚き以外の何物でもないだろう。



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