瀧本さんがトラック諸島に上陸したのは1944年2月11日。それから6日後の17日と18日に米軍の大空襲に遭う。瀧本さんは山中のトンネルに逃げこんだ。「その中でふるえあがっとったもん。とにかくこわかった」。穴から出て見た光景は、日本の敗戦を確信させるほどのものだった。軍の施設は陸上も港湾も何もかもが破壊されていて、巨大な重油タンクは黒煙を数日間あげつづけた。船はあらかた沈められた。飛行機も軒並みやられた。以降、手足をもがれたトラック諸島の陸海軍は、連日のように米軍空襲にさらされることになる。

「海軍T事件(※注)」とも称されるできごとは、大空襲の前日、16日に起きた。トラック諸島には将校用の日本料理店があり、「そこで軍幹部が飲めや歌えのどんちゃんさわぎをしていたんですね」。しかも警戒態勢が解かれていたから、ほとんど反撃らしい反撃もできないまま大空襲を受けてしまう。島全体を揺るがすほどの大量の爆弾だったから、それを地表で受けていた瀧本さんら兵隊にとってたまったものではなかった。

 この海軍T事件後に任を解かれた司令長官は、戦後も長く生きたが自らの責任について語ることはなかったという。

「戦場にかっこいい物語など一つもなかった」と合わせて、瀧本さんは戦争についてもう一つの結論を持っている。

「えらい人は責任を取りません。戦争で死ぬのは下っぱの若者ばかりです。今はどうですか。戦前と変わりましたか。国民が大変なときに、えらい人たちはどんちゃん大騒ぎをしているじゃないですか」

(朝日新聞大阪社会部・下地毅)

(※注)トラック島の「海軍T事件」
日本軍は第1次世界大戦後、ドイツ保護領だった南洋群島を占領。1930年代から軍事化を進めた。1942年からは南洋群島の中のトラック島に連合艦隊の司令部を置き、海軍の一大前線拠点とした。戦況の悪化とともに南洋群島の島々に連合軍が上陸・占領しはじめたことや、トラック島にも米軍機が偵察に来たことなどから、古賀峯一・連合艦隊司令長官は44年2月10日、戦艦「武蔵」や空母などの主力部隊をトラック島から退避させた。翌日の11日、手薄となったトラック島に配属されたのが瀧本さんらの部隊だった。それから1週間後の17日と18日、「所在の航空兵力及び艦船はほとんど全滅」(戦史叢書『マリアナ沖海戦』)という大空襲を受けた。「海軍T事件」の経緯はこうだ。連合艦隊が撤退した後にトラック島の指揮を執っていた第四艦隊の司令長官は、大空襲前日の16日に警戒態勢を解除してしまう。諸説ある理由の中の一つに、南方を視察中の陸海軍幹部を料亭で接待していたからではないか、もあった。このことは海軍内部でも問題視され、関係者への聞き取り調査もされた。結局、司令長官は解任されたものの、原因についてはあいまいにされた。