徳川慶喜の悲劇と寛永寺が江戸で唯一の流血の場となった最大の理由 (2/2) 〈dot.〉|AERA dot. (アエラドット)

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徳川慶喜の悲劇と寛永寺が江戸で唯一の流血の場となった最大の理由

連載「あなたの知らない神社仏閣の世界」

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徳川綱吉霊廟(れいびょう)勅額門

徳川綱吉霊廟(れいびょう)勅額門

寛永寺旧本坊表門

寛永寺旧本坊表門

谷中霊園内の徳川慶喜のお墓

谷中霊園内の徳川慶喜のお墓

●すべてを喪亡した寛永寺

 この時戦死した幕臣たちは、そのまま見せしめのように野ざらしにされていたという。

 現在の東京国立博物館あたりが本坊で、噴水前広場あたりが根本中堂。ここからまっすぐ不忍池までが戦火にかかった。残ったのは、池に浮かぶ弁天堂と少し離れた観音堂、五重塔、そして鉄砲跡の残る黒門と本坊表門などわずかなものだった。

 明治時代になると30万坪以上あった敷地の多くを没収され、廃寺の危機に見舞われた。それでもなんとか、川越の喜多院から根本中堂としてお堂を移築し、復興は果たせたが、江戸時代の面影はもはやどこにもなくなってしまった。

●寛永寺の歴代貫主は輪王寺宮

 徳川家の菩提(ぼだい)寺という同様の境遇である増上寺が、ここまでの被害を受けなかったのは、徳川慶喜が関係してこなかったということもあるだろうが、寛永寺が政治に巻き込まれた最大の理由は、輪王寺宮という創建以来貫主を務めてきた血筋にもあった。

 これは天皇家の血筋で、幕府が有事の際に東国で「天皇」を擁立するための策だったのではないかとも言われている。実際、上野戦争の時には彰義隊に輪王寺宮は担ぎ出されている。

 考えてみたら、この時、何かが変わっていたら、日本は東西2国に分かれてしまっていたのかもしれない(いや、ないか)。

 今も根本中堂の裏側には「慶喜公蟄居の間」という部屋が残されている。皮肉なことに、焼失を免れた数少ない建築物のひとつなのである。この時代、修行をしていたお坊さまたちはどう感じていたんだろうと、寛永寺に参る度に思わずにはいられない。

 江戸に入った新政府軍の「錦の御旗」には「天照皇太神(あまてらすおおみかみ)」と描かれている。明治政府は、神道を推し進め、恭順の意を示した徳川慶喜のお墓は──たった1年だけの将軍とはいえ──15人の将軍の中で唯一神道系の姿で、谷中の墓地で常に一般に公開されている。(文・写真:『東京のパワースポットを歩く』・鈴子)


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鈴子

昭和生まれのライター&編集者。神社仏閣とパワースポットに関するブログ「東京のパワースポットを歩く」(https://tokyopowerspot.com/blog/)が好評。著書に「怨霊退散! TOKYO最強パワースポットを歩く!東東京編/西東京編」(ファミマ・ドット・コム)、「開運ご利益東京・下町散歩 」(Gakken Mook)、「山手線と総武線で「金運」さんぽ!! 」「大江戸線で『縁結び』さんぽ!!」(いずれも新翠舎電子書籍)など。得意ジャンルはほかに欧米を中心とした海外テレビドラマ。ハワイ好き

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