荒物問屋はどんどん傾いたため、せいのアイデアか、夫の思いつきかは分からないが、天満天神裏にあった寄席「第二文藝館」の経営権を買い取り、芸人を集めて興行を始めた。のちに吉本興業は多くの寄席を買収し、「花月」と名付けてフランチャイズ化していく。その第一歩は、吉兵衛の道楽を逆手に取った商売替えだった。

「第二文藝館のおばはん、なかなか気ィきくなァ」

 せいの本質は、このほめ言葉に尽きる。芸人が入院すると親身に看病し、暑い日には寄席で冷たい飲み物を売った。芸人の心を掌握して、客の喜ぶことを次々と実行する気働きが、商いを大きくしていった。当時、絶大な人気を得ていた落語家・桂春団治を引き抜き、島根県の民謡「安来節」を取り入れ、「万歳」と言われた演芸を「漫才」に変えて「エンタツ・アチャコ」という人気コンビを育てた。

 せいは気が利くだけでなく、時代の先を読む目もあり、大衆に受ける“笑い”を生み出し続けた。1924(大正13)年には夫を亡くしたが、そのころには弟2人の手を借りて成功を収めていた。38(昭和13)年には新世界の一角に建つ通天閣のオーナーになる。慈善事業にも積極的に携わった。

 一方、成功の頂点を極める数年前から、困難に見舞われ始めていた。大阪府議会議長を務めた吉本興業顧問格の辻阪信次郎が1935(昭和10)年に贈収賄・汚職脱税事件で逮捕され、吉本興業は窮地に立たされた。辻阪が獄中で自殺したため、せいはわずかな罪で起訴されたにとどまったが、精神的なダメージは大きかった。その後も芸人の引き抜きで消耗し、戦禍に見舞われ、47(同22)年には「後継者に」と期待していた次男・穎右が24歳で他界してしまう。“笑い”で富を得たものの、笑えない時期は長かったのかもしれない。

 「てん」と「せい」を比較すると、「苦労の末に『笑いの総合商社』の礎を築いた女性経営者」というサクセス・ストーリーは重なるが、境遇は異なる部分もある。てんの生まれは京都の薬問屋であり、夫の芸にかける意気込みは吉次郎よりもかなり高いように感じる。

 キャラクターの違いもある。「朝の顔」であるてんは「みんなを笑顔に、幸せに」と願って、はつらつとふるまっている。一方、せいは「冷たい飲み物が売れるように」と塩味の濃いするめやおかきを売るなど、抜け目のなさで周囲をくすっと笑わせる「大阪のおばはん」である。

 せいもせいの母も多産だったが、早逝した子どもが多かったことは不運だ。晩年は不幸に見舞われ、陰影の濃い人生を送った。「わろてんか」のてんは“笑い”でどんな幸せをつかむのか? 半年間、じっくりと見守りたい。(ライター・若林朋子)