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巨人V10阻止、赤ヘル軍団「生みの親」…球史に名を残した歴代外国人監督

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中日・与那嶺元監督はハワイ出身の日系2世 (c)朝日新聞社

中日・与那嶺元監督はハワイ出身の日系2世 (c)朝日新聞社

広島のジョー・ルーツ元監督 (c)朝日新聞社

広島のジョー・ルーツ元監督 (c)朝日新聞社

 千葉ロッテの伊東勤監督が、成績不振を理由に今季限りで辞任することが決まった。後任監督には、今季限りで引退が決まっている井口資仁が最有力視されているが、球団OBで、現在は韓国プロ野球のロッテで育成打撃コーチを務めるフリオ・フランコの可能性もあるとされている。現在、NPBの外国籍監督はDeNAのアレックス・ラミレスのみだが、過去にも多くの個性的な指揮官が存在した。

 黎明期の職業野球の時代には、日系アメリカ人の本田親喜が名古屋軍で選手兼任監督を務め、その後もハワイ出身の日系2世の若林忠志が阪神と毎日オリオンズ、同じくハワイ日系2世の田中義雄が大阪タイガースで監督を務めた。

 ハワイ出身の日系2世で選手、そして監督として活躍したのが与那嶺要。「ウォーリー」の愛称で人気だった与那嶺は、1951年に巨人の助っ人選手として来日し、12年の選手生活ではMVP1回、首位打者3回、ベストナイン7回と活躍した。72年に就任した中日監督としての6年間では、1年を除いてすべてAクラスの成績を残し、74年には古巣巨人のV10を阻むリーグ優勝を果たした。

 MLB経験者で初めて日本で監督になったのが、75年に広島監督となったジョー・ルーツ。MLBでの出場は14試合のみだが、引退後にクリーブランド・インディアンズのコーチとなり、74年に打撃コーチとして広島に入団。監督就任後は練習方法やチーム編成などで大改革を行った。帽子とヘルメットを燃える闘志の赤に変更し、いわゆる「赤ヘル軍団」を誕生させた。審判の判定をめぐる退場処分に対する球団の対応への不満から、チームを指揮したのは開幕からわずか15試合のみで退団したが、同年の広島初優勝の功労者と評価が高い。

【写真】赤ヘルの生みの親はこんな人

 79年には阪神の監督にドン・ブレイザーが就任した。ブレイザーは1967年から3年間、南海で内野手としてプレーし、2年連続ベストナインに選ばれた。現役引退した70年からは選手兼任監督に就任した野村克也の要請でヘッドコーチを務めた。野村が「自分のID野球の源流はブレイザーにある」というシンキング・ベースボールで期待されたが、阪神での2年間と81年から2年間監督を務めた南海でいずれもBクラスと結果を残せなかった。

 ブレイザー以降、しばらく外国人監督は姿を消したが、95年に千葉ロッテが監督に招聘したのが、MLBで選手として10年間プレーし、さらに引退後はテキサス・レンジャーズで8年間、監督を務めたボビー・バレンタインだった。広岡達朗GMの抜擢で来日したバレンタインは、1年目からチーム10年ぶりのAクラスとなる2位と結果を残したが、コーチとの対立などもあり、その年限りで解任された。その後はニューヨーク・メッツの監督としてMLB復帰を果たした後、2004年には再び千葉ロッテの監督に招聘された。二度目の監督でも、大胆な若手抜擢や日替わりスタメンなど「ボビー・マジック」と呼ばれた独自の選手起用が成功し、復帰2年目の05年にはシーズン2位でプレーオフに進出。西武、福岡ソフトバンクを破って日本シリーズに進み、阪神を4勝0敗で下してチームを31年ぶりの日本一へ導いた。


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