カストロ氏の訃報が流れた日、キューバで何があったのか? (1/2) 〈dot.〉|AERA dot. (アエラドット)

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カストロ氏の訃報が流れた日、キューバで何があったのか?

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新井晴dot.
キューバ国旗を携え、革命広場で記帳の順番を待つ人々。午前9時の開始前にはすでに千人を超え、警察が出動して付近の道路の交通規制にあたっていた

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市内の新聞売り場に集まる市民。新聞の到着が遅れていたらしい。「テレビを見たけれど、やっぱり新聞を読みたいんだよ」と初老の男性は語った

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26日付の共産党機関紙「グランマ」は、8ページ全面モノクロ紙面で弔意を示した。カストロ氏の死去と葬儀などの日程、彼の足跡をたどる記事で埋め尽くされた

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サングラスを外して涙をぬぐう女性。声を上げて泣く人の姿はなく、声を押し殺すように、静かにおえつをもらしていた

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革命広場の人の波は、夜になってもひかなかった。「あと何時間待つのですか」「さっぱりわからないけれど待つよ。フィデルに直接、別れを告げたいんだ」

革命広場の人の波は、夜になってもひかなかった。「あと何時間待つのですか」「さっぱりわからないけれど待つよ。フィデルに直接、別れを告げたいんだ」

 2016年11月25日。その夜、私はキューバ北部のリゾート地バラデロで、伝説のバンド「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」のライブを堪能していた。夢心地でホテルの部屋に戻った午前零時半すぎ、携帯電話が鳴る。

「カストロ氏死去と今、速報が入ったよ!」

 それは、カストロ前国家評議会議長の死を知らせる、日本からのメールだった。

【カストロ訃報に沈む街の写真はこちら】

 1959年、チェ・ゲバラと共に親米のバチスタ政権を倒し、キューバ革命を成し遂げたフィデル・カストロ。反米姿勢をあらわにして旧ソ連との関係を深め、1962年にはあわや米ソ核戦争かと世界中が震撼(しんかん)した「キューバ危機」の舞台にもなった。医療と教育が無料の国をつくり、質素と勤勉を愛し、国民から絶対的な信頼を得ていた。

 キューバという社会主義国が急激に資本主義化していると耳にし、「フィデルが生きているうちに行かなくちゃ」と気軽に選んだバカンス先で、まさか訃報に接するとは。キューバの歴史的瞬間を目の当たりにした以上、現地の人、特に首都ハバナで市民の本音を聞いてみたい。居ても立ってもいられなくなった私は、2日前まで滞在していたハバナに戻るため、午前6時発のタクシーを予約した。

 26日午前8時すぎ、タクシーがハバナに到着した。中心部は穏やかで、泣き叫ぶ人や花を手に集まる市民というようなシーンはなかった。ド派手なクラシックカーのタクシーが、いつものようにホテルの前で客待ちをしていた。

 今回の滞在でお世話になっている20代の友人が車を回してくれた。さっそく革命広場に行ってみると、キューバ人が十数人、たなびく半旗を無言で見つめていた。

 60代の女性は「フィデルはずっと国民のためにがんばってきてくれた」と言葉を絞り出した。「彼は白人だけど、私たちのような黒人も気遣ってくれた。平等の国を作ってくれたのよ」。

「何かあると市民が集う」と聞いていた中央広場や、土産物屋が並ぶオビスポ通りにも行ってみたが、私が訪れた数日前と同じ表情だった。気温が25度を超え、暑さが増す。亜熱帯のキューバでは11月は乾期だ。強い日差しが目に肌に痛い。

 車に戻ると、友人が静かに話し出した。

「俺も家族も、フィデルが大好きな『フィデリスタ』なんだ。この国では学費も医療費もタダ。食料の配給制度もできた。みんなフィデルを心から尊敬してるよ」

 でも今、フィデルが目指した理想の社会は急速に変容している。アメリカの経済制裁とソ連の崩壊などで、90年代以降キューバ経済は激しく落ち込んだ。2008年に議長の座を受け継いだ弟のラウル氏は、市場主義経済の一部導入に踏み切った。


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